黒柴りゅうの散歩道

日本各地の旅の記録(伝建地区と一宮そして100名城)

129 丹波七福神めぐり

1 新春「ご利益」ハイキング
 新年の恒例行事として、ふるさと亀岡ガイドの会主催の「第14回七福神めぐり」が三連休の最終日、約50名の参加で出雲地域をにぎやかに案内して来ました。昨年、親しくしていた先輩に誘われ加入したガイドの会ですが、これまで見えていなかった地元の魅力が分かる様になり、参加しているだけで勉強になります。加えて学生時代のサークルの様に仲間も増えますので、月に一度の「城下町歴史案内所(本町カフェ)」の当番も含めて良い感じです。

2 元愛宕神社のこと
 まだよく分からない中身も多いので、列の後ろで見守っている役割が多かったのですが、今日は全員どこかで一つ説明をする事になっていたので、愛宕神社(千歳町国分)を担当させてもらいました。ここは現在の山頂にある愛宕神社より歴史が古いので「元愛宕」と呼ばれていて、全国に約千ある愛宕神社の本宮だそうです。
 延喜式によると亀岡市丹波国桑田郡)には、愛宕神社を含め式内社(国家の保護を受けている神社)が19座あった事になっていますが、愛宕神社継体天皇の頃が起源で圧倒的に古く、本殿は国の重要文化財ですから非常に格式が高い社です。

3 桑田郡式内社
 こんな経緯で出会うことになった丹波国式内社、全国の一宮も回っているだけに強く興味を惹かれ、新年になりすべてお参りして来ました(これ迄に参拝している神社を除く)。あまり知られていない地味な神社は、街道から外れていたり山中にあったりして、逆にパワースポット感を強く感じました。新年より多くの神社をお参りした2024年はどんな年になるのか楽しみです。

※上の画像は丹波国桑田郡式内社のうち、現在は京都市京北町になっている山國神社(遠くからでもパワースポット感!)。下は丹波国一宮の出雲大神宮、正月も一週間明けたのに凄い参拝者でした!

128 暖かな南国の伝建地区へ

1 年の瀬に石垣へ
 全国の重要伝統的建造物群保存地区127地区の内、124番目の訪問地竹富島を目指して、3泊4日で八重山諸島石垣島西表島竹富島小浜島 etc.)を旅して来ました。
 関西空港からピーチでの旅、LCCは第2ターミナルで少し離れた場所(バス移動)というのは想定内でしたが、建物が倉庫か体育館のような簡素な建物で機内へはタラップを使っての搭乗、少し驚きました。関空から石垣空港へは約2時間半の旅、久しぶりにじっくり読書が出来、快適な空の旅です。
 到着後、家内と二人ゴロゴロとスーツケースを引いて予約したトヨタレンタカーへ、着いてから迎えのバスがあった事をお店のスタッフに聞き残念でした(笑)

2 124番目の伝建地区竹富島
 宿泊先は海の向こうに竹富島が見えるグランヴィリオリゾート石垣島、着後ツアーデスクで西表・竹富へのツアーを申し込み、翌日船で向かいました。
 西表島は大きな島なのでバスで島内観光、由布島への水牛渡し・国内最大のマングローブ仲間川どちらも魅力的なツアーです。午後竹富島へ、下船後レンタサイクルを借り、古い町並み地区をグルグル廻りました(山がないので方向が分かりにくい!)。高台から町を見下ろしたりブラタモリが訪れた場所を見つけたり、印象に残る124番目の伝建地区訪問になりました。

3 海だけでない石垣島の魅力
 3日目・4日目はレンタカーで島内巡り、意外にも高い山があるのに驚きながら(沖縄県最高峰)、本州とは色が違うエメラドブルーの海を求めて平久保崎や玉取崎、そして山城(丘城でしたが)のフルストバル城(グスク)など訪ねました。道中、上皇后美智子様が訪問された石垣焼の窯元や、出川哲朗の番組で紹介された八重山そばの店「ヤスとカマーの店」などにも立ち寄り、思っていたよりもはるかに魅力の多い石垣島の旅、そして思い出に残るクリスマスになりました。




 

127 長崎平戸沖の離島へ

1 在来道も使って九州へ
 今年の夏は、離島の伝建地区を終わらせるということで、永年の懸案だった佐渡の宿根木を訪れましたが、実は7月の上旬に長崎県の平戸の沖に浮かぶ伝建地区・的山大島(「あづちおおしま」と読みます)神浦地区にも訪れていました。なぜ今までブログにしていなかったかと言うと、酷い目に遭ったからでした。

長崎県平戸を代表する景色「平戸大橋」と日本100名城の「平戸城」(曇天が残念)

 7月9日関西を出発し平戸を目指したのですが、途中現存12天守最後の訪問地「備中松山城」に寄っておこうと考えたのが、失敗の始まりです。九州北部の豪雨の影響で、午後には山陽道が一部通行止め。国道2号に迂回となったのですが案の定大渋滞、延々とノロノロ運転となりました。2時間ほどで漸くクリアでき、九州道に上がれた時は既に辺りは真っ暗、車中泊を予定していた松浦市の道の駅に着いた時はほぼ深夜、本当に大変な状況でした。

現存12天守の最後の訪問地備中松山城、全制覇を伝えると係の方に拍手を頂きました!

2 豪雨の道の駅
 ところがこれで終わりではありません。そこから明け方未明に掛けて、九州北部で線状降水帯が発生、半端じゃない雨が空から落ちて来て、駐車場で遭難するのかと覚悟したほどでした。もちろん車の天井を豪雨が激しく叩くので、うるさくて眠れません。が結局、長距離運転の疲れもあり(700km)、漸く3時頃には眠れました。

車は平戸港に置いていくことに。的山大島出身の女性のアドバイスに感謝でした!

 翌朝、何とか雨は上がっていました。暴風でない限りフェリーは出ると聞いていたので、平戸港に向かうと、待合室にはたくさんの乗客が見えたので一安心でした。的山大島は大島という名前だけあって結構大きな島で、港から伝建地区の神浦地区までは少し距離があり、移動が悩みでした。車と一緒に渡るべきか随分迷ったのですが(往復運賃:人1320円・車7430円)、港で出会った大島出身者の方に、「車はもったいない、乗り合いの島内タクシー(公共)があって100円ですよ!」と言われ、車は置いていくことが出来ました(笑)

3 長崎県平戸市大島村神浦
 乗船時間40分で島に着き、建物を出た所でワゴン車が待っていました。「観光客も乗れますか?」と尋ねると、運転手さんが「どうぞどうぞ」とのことだったので、安心して乗り込みました(多分同年配のシニア)。乗客はもう一人の方と私の二人、その方は小学校前で降りられたので(先生かな?)、結局神浦の伝建地区に着いた時は私一人でした。運転手さんは「ここで待ってくれてたら、帰りのフェリーに間に合うように港まで運ぶよ!」と待合所を教えてくださり、安心して約一時間の町並み探訪に出かけました。

町並みの奥に見える浄土宗西福寺、伽藍の大きさに往時のこの島の繁栄が偲ばれる。

 神浦は、江戸時代の捕鯨をきっかけに、水産加工業や船問屋などの商工業で発展した「離島の港町」です。湾沿いの通りに古くからの町家が連続し、高台の寺や神社・山や海と一帯をなし、歴史的な町並みを形成していました。

 

 

126 「ラスト4つ」の伝建地区訪問

 伝建地区126ヶ所中123番目の訪問地「宿根木地区」。佐渡は意外と本州から遠く(直江津港小木港:74km)、佐渡汽船のフェリーで2時間半掛かりました。ただ船内は人も車も満載で、想像以上に人気の島です。

 宿根木を代表する三角家周辺は特に人が多く、金山跡も若い人で賑わっていました。怖いアトラクション?!が苦手な私は、多分乗らないだろうと思っていた「たらい舟」ですが、家内の強引な誘いで結局乗らされました(笑)

 佐渡は海岸線が単調なイメージでしたが、訪れてみると意外と変化に富んでいました。少し調べるとジオパークだったので、当然と言えば当然で自分の認識不足。金山の「北沢浮遊選鉱場跡」「道遊の割戸」など見所の多い島でした。面積も沖縄本島の約3/4、随分大きい島だったんですね!

 帰路は、上信越道から長野道経由で安曇野に立ち寄り、以前から楽しみにしていた「大王わさび農場」を訪れて来ました。ここも若い人で溢れ、わさびアイスがよく売れていたのが印象に残ります。

 その後訪れたのは、日本のチロルと呼ばれる遠山郷「下栗の里」飯田市)です。何かの番組で見た森の合間から見えるその絶景に圧倒され、ずっと訪ねてみたいと場所でした。食堂に入って地元産手打ちそば・こんにゃく田楽をいただきながら、山の暮らしの話を聞かせてもらいましたが、丹波山地の奥深い村で生まれ育った私には、とても印象に残る旅の一コマとなりました。

インバウンドで人気の中山道妻籠宿」の画像も付け足しで!

 

 

125 本能寺攻めルート「唐櫃越」

明智光秀と京都丹波の山城」の講演を依頼され、京都市桂坂の裏山「峰ヶ堂城」を調べている内に、本能寺攻めの「唐櫃越(からとごえ)」が横を通っている事を発見。これは一度歩いておく必要があるな!と考え、2年前山陰道ルートを一緒に歩いた友人と酷暑の中を計画。出発を早朝の5時にすれば、山上は気温も低いので大丈夫だろう!と60代半ばの二人の挑戦でした。
 踏破しての感想は、やはり磯田先生(日文研のランチでお出会い!)の言われた「唐櫃越は厳しい山岳ルートでしかもあの道幅、本能寺攻めには使ってないだろう」が納得でしたが、当時の道の整備状況や軍勢はいくつかに分けたであろう事を考えると、やはり唐櫃越を使った可能性は捨て難いですね。結論はまだ先送りです。

(左)JR馬堀駅前から見る唐櫃越 (右)登山口の如意寺(宇野豊後守の居城跡)

(左)寺の裏山に見つけた山城の石垣跡 (右)尾根に出るまでは厳しい山道が続く

最初の目的地みすぎ山から見た亀岡市。手前が篠町、遠くにつつじヶ丘団地が見える!

(左)保津峡駅を出て亀岡に向かう電車 (右)霊峰愛宕山愛宕神社の総本社

出発から約5時間、右手に見える道路は京都縦貫自動車道京都市大原野

遠くに京都タワー西本願寺が見える。本能寺が炎上すれば確実に見えただろう!

出発から7時間、峰ヶ堂城にたどり着く。やはり光秀軍はここを押さえていたはず!

 

 

124 法貴山城と東掛城(亀岡市)

 最近立て続けに亀岡市南部の山城に登りました。一つは曽我部町の「法貴山城」(比高240m・国衆酒井氏の城)、もう一つは東別院の「東掛城」(比高175m・国衆赤澤氏の城)、どちらも大変立派な遺構が残っていて驚きました。

【画像】法貴山城(遠景・縄張図・外の堀切・内の堀切・主郭)

 特に法貴山城は縄張図からも分かる様に、規模が大きいだけでなく堀切を何重にも回した技巧的な城で、単に国衆の城と言うより守護(丹波細川氏)が関わっていたのではないかと思われる程にインパクトがありました。よく考えると摂津との国境も間近です。一緒に登った曽我部町自治会長も、地元に残る中世の遺構にびっくり!という感じでした。

【画像】東掛城(遠景・主郭・堀切・土橋)と登り口の素戔嗚神

 東掛城は地元で町おこしに頑張っている元同僚に案内して貰いました。こちらもなかなか立派な城でした。現在の感覚で言うと山奥なのですが、さすがはかつての交通の要衝でした。下山後にランチした自治会横のお洒落なカフェ「YAMA NO TERRACE」や、小野小町が湯治で訪れたとの伝承が残る湯谷地区の「湯壺」に案内してくれて、強く印象に残りました。亀岡もまだまだ広い!

【画像】カフェYAMA NO TERRACEと湯谷の湯壺

 

 

123 石見銀山・出雲大社への旅

5月から突如仕事が忙しくなり、ブログもFacebookInstagramも、パタッと投稿が出来なくなりました。表現すると言うことは、改めてエネルギーのいることだったのを痛感します。

と言うことで久しぶりの更新です。
少し時間が経ちましたがGWに石見銀山出雲大社を夫婦で旅行してきました。世界遺産石見銀山は、最盛期には世界の銀の約3分の1を産出したと言われ、繁栄を支えた麓の町「大森」や積み出し港の「温泉津」は歴史の痕跡がよく見える地域です(どちらも重要伝統的建造物群保存地区)。特に温泉津は本州で唯一未訪問の伝建地区で、大森は写真が残せていなかったので、良い旅行になりました。

往時の繁栄が偲ばれる大森の町並・銀山への坂道を電動自転車(レンタル)で移動

熊谷家住宅(重文)・石見銀山(龍源寺間歩)・直木賞「しろがねの葉」佐毘賣山神社

石見銀山の外港として栄えた港町・温泉津の町並と元湯薬師湯旧館・内藤家庄屋屋敷

ところで今回も高速の深夜料金を利用し、行楽地に一番に着けるメリットを生かすため、広島福山SA(山陽道)で車中泊しました。ところがいつもなら深夜になると空いてくる広大な駐車エリアですが、コロナ解禁後初のGWと言うことで凄い混み具合い! 朝5時に目が覚めた時点でも、周りは車が一杯で「みんな旅の機会を待ってたんだ!」と痛感しました。

出発前の出雲のホテルも予約が大変でしたが、翌朝出雲大社は8時の時点で駐車場が長蛇の列、うーん日本に活気が戻って来ました!

追伸、周辺観光も少し。120年の時を経て佇む石造日本一の高さ「日御碕灯台」(国重文)、中国地方最高峰「大山」の勇姿。

 

 

122 他に類を見ない空間「江之浦測候所」

 以前から訪問を念願していた小田原市の「江之浦測候所」、先月の関東訪問の帰りに遂に立ち寄れました。
 ここは現代美術作家・杉本博司によるアート作品の地で、壮大なランドスケープが文化芸術の発信地となっています。場所そのものがアートというのは少し理解しにくいのですが、以前BS日テレ『ぶらぶら美術・博物館』(山田五郎おぎやはぎの番組)で見てびっくりし、事前予約が必要なこともあって伺える機会を探っていました。
 広大なスペースの中、長さ100メートルに及ぶギャラリー棟(杉本博司のアート作品展示)や、夏至冬至の日の出遙拝通路、奈良春日大社から勧進した朱塗りの春日社など、強いメッセージとインパクトが放たれていて圧倒されました。

①外から見た「夏至光遙拝」100㍍ギャラリー

②「夏至光遙拝」100㍍ギャラリーの内部

杉本博司代表作「海景」

④ギャラリー背面の大谷石

⑤「冬至光遙拝」通路と光学硝子舞台

⑥「冬至光遙拝」通路入口

冬至光遙拝隧道入口

東大寺七重塔礎石

⑨奈良元興寺礎石

⑩旧奈良屋門(岸信介別荘)

⑪石造鳥居と茶室

⑫柑橘山春日社

⑬数理模型0010負の定曲率回転面

相模湾小田原市遠景

 

121 明智光秀の道を往く

1 天正年間の丹波進攻
 これまで歴史研究会の仲間と一緒に、明智光秀ゆかりの山城を訪ねたり、亀山城から本能寺への道を歩いたりして来ましたが、いよいよ丹波進攻のルートを歩いて、波多野氏の城「八上城」を目指すウォーキングツアーを計画しています。
 先日ルートの下見のため、丹波入国後の光秀最初の拠点「丸岡城」から、家臣野々口西蔵坊の「埴生城」まで、約15kmの道のりを歩いて来ました。八上城までちょうど中間地点です。(ルート後半の埴生城~八上城約19kmは後日予定!)

  京都府中世城館跡調査報告書の地図を繋ぎました。下は丸岡城八上城です。

 亀岡市の西部は山城が多く、歴史の足跡を訪ねる妙味はもちろんでしたが、篠山街道沿いに並ぶ伝統的な家屋や造り酒屋の老舗、のどかな自然を満喫できる、魅力満載の4時間でした。

2 篠山街道の伝統的建造物
 歩いて30分程で吉川町ですが、農村地帯とは思えない様な建物が続き、かつての篠山街道が豊かな街道であったことがよく伝わって来ます。製菓工場を営んでいた豪商の「曽我家住宅」、丹波寒天を扱っていた「西田彰吾商店」、そして虫籠窓が目立つ厨子二階の建物「佐藤医院」です。

3 伝統の老舗や京都の奥座敷湯ノ花温泉
 吉川町を抜け薭田野町に入ると、創業300年(元禄年間)の「大石酒造」の白壁が見えて来ます。ここで試飲出来ると盛り上がりますが、先を急ぐので素通りしました。旧佐伯館跡と思われる御霊神社の土塁を横目に、やがて湯ノ花温泉に入ります。旧道が山の裾野に見えたので、そちらを歩きました。

4 光秀公首塚明智の家紋桔梗の寺「谷性寺」
 境内に光秀公首塚があることから光秀寺とも呼ばれ、本尊を厚く信心し、家臣に首をそばに埋めるように託していたと言われます。門前では夏になると、明智家の家紋である桔梗が咲き誇る「ききょうの里」行事が開催されます。

5 国衆の野々口西蔵坊の城
 埴生城城門の残る「最福寺」で地元郷土史家と合流し、本丸を目指しました。比高85mですが15km歩いた後なので、息を切らせながらの登城です。頂上からは八木城(丹波三大山城)はもちろんのこと、遠く愛宕山まで望め疲れが吹っ飛びました。
 なお長らく埴生城の遺構かどうか真偽不明だった山門ですが、「麒麟がくる」の建築考証をされた三浦正幸先生が、昨年園部城に来られた際に実際に見て「江戸期より古い」と確認されたとのことでした。

 

 なお本能寺の変について語った『本城惣右衛門覚書』の「本城惣右衛門」は、埴生城主の野々口西蔵坊の配下で戦った武将です。

6 貸し切り状態の路線バス
 埴生城を下りて近くの古民家レストラン「ル・ジャルダンポップ」https://jardinpop.jp/(仏料理)でランチした後、路線バスで亀岡駅に戻ります。田舎のバスは何十年ぶりだったでしょう、本当に来るのか不安なぐらいでしたが、きちんと定刻にやって来ました(京阪京都交通素晴らしい!)。二人で貸切状態でしたが、亀岡駅南口まで810円、むむむという感じでした(笑)

 

 

120 関東屈指の山城と蔵の町

1 関東地方の凄さ
 戦国時代や天下統一は関西を中心に展開し、関東地方や東北・九州などはあまり関わりがないイメージを持っていました。大勢が決した後、豊臣政権に恭順していく様な感じだったので、関東の山城が、規模が大きい事や造りがしっかりしている事に、とても驚きます(99 北関東の日本100名城)。
 よく考えると、丹波の国衆達も東日本ルーツが多く(承久の変後に新補地頭でやって来た)、関東平野は広大なので当然と言えば当然です。訪れた国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)でも、東日本の高い人口密度と生産力という展示があり(代表例は三内丸山遺跡か?!)、これまでの自分の歴史観を覆されました。

2 金山城国史跡)の魅力
 篠山にある光秀の城は「きんざんじょう」ですが、ここは「かなやまじょう」と呼び、15世紀に新田一族岩松氏が築城しますが、戦国期は由良氏により全盛期を迎え、上杉・武田の攻略にも落城する事なく、難攻不落を誇りました。
 日程にやや余裕がなかったので、スルーしようかと麓を通りかかったのですが、そこから感じる様子でさえ「ただ者」ではなかったので、日程を変更して登城を決意、再建整備された大手虎口の規模と堅固な様子には圧倒されました。
 往時の人々の営みに敬意を表し、本丸の新田義貞神社に参拝し、充実感の内に金山城を後にしました。「上まで登って良かった!」、山城好きの実感です。

3 蔵の街と日光例幣使街道
 ここは旧栃木宿の北に位置し、南北に巴波川が流れと日光例幣使街道に面します。岡田記念館は、この地の領主岡田嘉右衛門の居宅で、畠山家の陣屋にもなっていました。江戸時代に、岡田家は未開の地を開墾して村づくりに貢献したため、この地は嘉右衛門新田と称されるようになり、現在の現嘉右衛門町につながっています。

 ただ、町並としては同じ栃木市内の「蔵の街」が印象に強く、併せて伝統的建造物群保存地区にすれば良いのでは、と感じながら見ていました。

 ところで、全国旅行支援事業の「いちご一会とちぎ旅」クーポン(平日なので2,000円)を使って、蔵街の良く見える巴波川(うずまがわ)畔のレストランに入ろうとしますが、どこも取り扱っていません。多分電子アプリなので、レジが対応していないんだと思いますが、「地元の業者を潤わさない旅行支援って何!」と先輩と二人ブーイングでした。高速のSAは使えたのですが、それってどうなんでしょうね?(苦笑)

 

 

119 薩摩の武士が生きた町

1 薩摩藩独特の外城制「麓(ふもと)」
 鹿児島県の伝統的建造物群保存地区としては「知覧」が有名ですが、他の三地区(出水・入来・加世田)もすべて武家屋敷群で構成されていて、日本遺産「薩摩の武士が生きた町」でも名前が知られる様になりました。

 薩摩藩の特徴ですが、藩主の住む地に巨大城郭を築く代わりに中世式の山城を各地に残し、それぞれ家臣に守らせる外城制(とじょうせい)の麓(ふもと)毎に治めていたのです。
2 出水市出水麓(いずみふもと)
 中でも出水市出水麓は、肥後との国境に配された最大級の外城です。旧武家屋敷地の大部分が保存地区に指定されていて、東西南北路の街路を中心に碁盤の目の町並が形成されていました。知覧よりも広々とした印象で、武家屋敷が周囲の環境と一体となって麓の歴史的景観を良く伝えてくれていました。

3 薩摩川内市入来麓(いりきふもと)
 入来麓は、中世山城の清色城を中心に樋脇川を天然の堀に見立て、その内側に武家地を配する居住地域です。街路に面して玉石積の石垣と生垣によって区画され、周囲の山々と一体となった美しい景観でした。なお旧増田家住宅(重文)の掛け軸は、西郷隆盛の揮毫です。

4 南さつま市加世田麓(かせだふもと)
 加世田麓は、中世山城「別府城」の周辺に作られた武家地に始まる麓です。町を流れる益山用水(江戸中期に完成・延長5㎞)と、そこに架かる石橋や屋敷を区切る生垣など、地形をうまく活かして作られた歴史的な雰囲気が良く残っていました。

 

 

118 伝建地区と100名城の町

1 発足時 昭和の伝建地区
 昭和50年の文化財保護法の改正によって伝統的建造物群保存地区の制度が発足し,城下町・宿場町・門前町など、全国に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになりまし。
 翌年その最初の指定が行われました。仙北市角館・南木曽町妻籠宿・白川村荻町・京都市産寧坂祇園新橋萩市堀内地区・平安古地区の7地区です。何れも我が国を代表する観光地に育っています。

2 九州の小京都と飫肥城
 そしてその翌年、宮崎県日南市飫肥は九州・沖縄地方で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。以後「九州の小京都」と呼ばれ、大手門の残る飫肥城趾(宮崎唯一の日本100名城)と合わせ、多くの観光客が訪れています。私達夫婦も、椎葉村と美々津の伝建地区を訪れた翌日、師走とは言え予想最高気温14℃を越える暖かい南九州、絶好の好天の中この町を訪ねました。

3 落ち着いた城下の町並
 飫肥は関西人には読みにくい地名ですが、読み方を「おび」と聞くと「ああ」となる有名な町です。地方の小藩の典型的な景観を保ち、江戸時代の地割もよく残していて、道路に沿った石垣や長屋門などが並ぶ街路は、小村寿太郎の生家も含め、まさに伝建地区を代表する景観です。南九州では知覧と並んで永らく訪れてみたい町でした。

 

118 角川武蔵野ミュージアム

1 北関東への再訪
 二月の初旬、奈良出身で東京在住の先輩(110 奈良田原本のカフェ・プラススクエアのオーナー)と北関東を再訪しました。前回時間の都合で寄れなかった下野国一之宮の日光二荒山(ふたらさん)神社と、伝統的建造物群保存地区栃木市嘉右衛門町です(画像・清水PAからの富士山)。

 この二つだけを目的に関東まで出向くのはコストパフォーマンスが悪いので、ずっと気になっていた場所を加え行程を考えました。
 ①角川武蔵野ミュージアム所沢市
 ②忍城(おしじょう)・さきたま古墳公園(行田市
 ③金山城(100名城)太田市
 ④足利学校・足利氏館(100名城)足利市
 ⑤栃木市嘉右衛門町(伝統的建造物群保存地区栃木市
 ⑥日光二荒山神社東照宮(一宮)日光市
 ⑦水戸城弘道館(100名城)水戸市
 ⑧牛久大仏牛久市
 ⑨江之浦測候所(小田原市
なかなかボリューム感のある3泊4日です。

2 武蔵野の奇観
 角川武蔵野ミュージアムは、図書館・美術館・博物館が融合した新しいコンセプトの文化複合施設として2020年にオープンしています。所沢市との共同プロジェクト「COOL JAPAN FOREST構想」の関連施設で、アート・文学・博物などのジャンルを超えて知を再編成したミュージアムと謳われています。
 何と言っても外観が奇抜です。現代都市の空間に突如として岩の塊が鎮座しています。これを見たくてはるばるやって来ました。

 奇抜な外観は隈研吾氏のデザインで、武蔵野の地から湧き出るマグマがイメージされ、およそ2万枚の花崗岩を組み合わせた61面体の建物だそうです。どの角度から見ても迫力十分ですが、4階に上がると更に本の空間「本棚劇場」に圧倒されます。その名のとおり本棚を背景にし、「本と遊び、本と交わる」がコンセプトのプロジェクションマッピングは圧巻でした。

 隣接した場所にある「武蔵野坐令和神社(むさしのにます うるわしき やまとの みやしろ)」もデザインは隈研吾氏、命名は国文学者の中西進氏(元号令和の考案者?)で、現代的な建築と神社らしい古風な外観が不思議とマッチする建物でした。

 

117 九州山地の中の伝建地区

1 山村集落の伝建地区椎葉村
 伝建地区の中で、山村集落は厳しいアクセスの場所が多く、これまでどうしても後回しになっていました。商家町や宿場町などは、昔からの交通の要衝に発展しているので、どこかへ出かけるついでとか、いくつもの地区をかけ持ちで回るとか、気軽に訪れることが可能ですが、山村はそこを目的に旅するという気合いが必要です。
 十根川集落はまさにそんな場所にある伝建地区で、九州山地ほぼ中央の山深い椎葉村内にあり、地図を眺めるだけでも難所だと予想出来ました。到着して周囲を見渡すと、山林に囲まれた急斜面に石垣を使って平地を作り、独特の歴史的景観を作っています。

2 国内最大級の杉の巨樹
 村の中に、近隣八カ村の氏神として崇敬されてきた十根川神社があります。西側には八村杉という戦前に指定された天然記念物がそびえていました。樹齢800年・樹高54㍍・根回り19㍍もの巨木で、九州で一番高いスギ(全国二位)だと言われています。

3 難所を移動し港町の伝建地区美々津へ
 椎葉村から次の伝建地区美々津(日向市)へのコースは、途中台風で国道が大きく崩落していて、険しい山道を迂回しました。家内が何度も「ええっ!ここ行くの?」と声を上げる林道で、谷底に落ちない様気をつけての運転です。結果到着が大幅に遅れ、美々津では暗くなる街を走って写真を撮ることになりました。ここは日向灘に面する港町ですが、神武天皇東征の出発点という伝説が残っています。江戸時代には瀬戸内や近畿地方への玄関口として、美々津千軒と言われるほどの繁栄したそうです。

【上】石畳の中町通 【下】日向市歴史民俗資料館、美々津軒(旧矢野家)

4 夜の参詣日向国一宮
 都農神社に着いた時には辺りは真っ暗で、とてもご朱印の貰える時間帯ではなくなっていました。その夜は宮崎市内のホテル泊なので、翌朝再訪するには往復100kmの移動となり、次の鹿児島での行動が制約を受けることになります。困ったなあ!と弱っていたその時に思い出したのが、かつての職場で仲良くしていた都城市出身の後輩でした。実家に帰る際は家族を連れて車で帰っていたので、その際ご朱印(書き置き)をお願いすれば良いことに気づき、境内を後にしました(後日連絡し快諾!)。
 何にしても暗くなってから神社にお参りしたのは生まれて初めてで、思い出に残る日向国一宮でした。       (画像は暗くて撮れなかったので、公式Instagramより)

 

 

116 実家の裏山が山城!

1 丹波国守護代内藤氏の家臣
 私の実家は丹波山地の山深い場所なので、日本史とは無関係の場所だと思っていました。ところが八木城(丹波三大山城)を調べて行くうちに、生まれ故郷も守護代内藤氏の勢力下に組み込まれていて、幼い頃友人達と遊んだ「城山」が中世城郭(山城)であることが分かりました。名前は田原城(標高323m比高150m)城主は小林氏(日向守)、遠くから眺めると均整の取れた三角形の形で、波多野氏の八上城の様です。

【上】田原城全景 【中】田原城畝状竪堀・田原城堀切 【下】出城亀田城堀切と土塁

2 一番新しく見つかった居館跡
 昨年秋、歴史研究会の仲間16人で田原城に登りました。出城と言われる近くの亀田城も一緒に登ったのですが、見事な竪堀群や堀切・土塁など見つかりました。その時、城郭研究家の高橋成計先生が、「確か川向かいにも小林氏の城館跡があったはず!」と言われたので「そこは私の生まれた在所です。何か分かったら教えてください!」と頼んでおいた所、後日研究仲間が作成された地図と縄張図を送ってくださいました。よく見ると、その城館跡は何と我が家(実家)の裏山でした。「驚愕の事実」が判明しました。

3 まさかまさかの大発見
 裏山は竹やぶで、幼い頃から父と筍を掘り、稲木や竹箒の材料にする竹を切り出していた場所です。作業の際、平らな場所があって仕事がし易く、便利だなと思っていたら曲輪跡でした。比高があまりないので「館」と記載されていますが、立派な「山城」です。
 ちょうど、小林氏の居城「田原城」と出城「亀田城」そして我が家の裏山、三つの城で領地を守っていたのでしょう。若狭国につながる街道と、丹波山地を横切る街道が交差する交通の要衝です。川に尾根が突き出る場所を利用して築城されているので、水運にも持って来いの場所だったかも知れません。

【上】実家と裏山その背後に田原城 【中】主郭跡と土塁 【下】切岸と腰曲輪

4 これからの見通し
 退職後山城の面白さに目覚め、各地の山城を歩いていましたが(日本五大山城を含む約50城)、まさか自分の実家の裏山が山城とは思いもよりませんでした。灯台下暗しです。父が亡くなり竹が倒れて荒れっ放しになっていたので、上がりやすくするため少しずつ整備を進め、文化財になる日を夢見て頑張ろうと思います。(なお小林氏は、豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役)に出陣していたことが、石田三成発給の文書から分かっています。と言うことは我が祖先も朝鮮半島まで従軍していた可能性があります。日本史は意外にも身近でした!)

 p.s.今回の発見は山城ファンとしては本当に嬉しいことです(笑)

 

【続報】
三月下旬、城郭研究家の高橋成計先生にお世話になり、現場を詳しく見てもらって縄張図を書いていただきました。先生によると「戦闘を想定した造りに十分にはなっていないので、残念ながら山城とは言いがたい。居館跡ですね!」との事でした。
実家の裏山が山城、私が「新シ城」と命名!と言う夢は、あっけなく潰えました。
しばし良い夢を見させていただきました(笑)