黒柴りゅうの散歩道

日本各地の旅の記録(重伝建と一宮そして100名城)

55 伝建地区-千曲市稲荷山

1 町並・建物保存の現状
 稲荷山地区は、江戸時代終わりの地震で大きな被害を受けました。その善光寺地震による大火を経験し、この町の土蔵は、壁・粗壁・なまこ壁・腰板張りの壁などの蔵が多く残っています。町はその後大きな復興を遂げ、明治時代から大正時代には、生糸やその製品が集まる北信濃有数の町として栄えました。
 伝建地区としてはまだ日が浅いためか、伝統的な街並みの復元には少し時間がかかりそうでした。様々な建物が混在していて、今後の進展が待たれます。

「たまち蔵道」の土蔵群、表通りから外れた小道で分かりにくいのが難点ですが、素敵な佇まいでした!

2 町の人に尋ねると
 町の人に建物の場所を尋ねると、どの方もとても親切に対応して下さいました。
 コンビニで店員の方に伝建協の冊子『歴史の町並』の稲荷山のページを見せ、「この建物はどう行けば良いですか?」と聞くと「私は別の町から来ているのでよく分からないです。すいません。」との事だったので諦めて、駐車場で見つけた中高年4人乗車の車(一人は詳しい方がいる筈)に近付き同じ様に尋ねてみました。
私「すいませーん。地元の方ですか。この建物探しているのですが・・・・?」
車(お父さんらしき方自信を持って)「これは一つ向こうの通りを右に行ってすぐだ!」
 (横の奥さんらしき方)「お父さんちょっと違うんじゃない。交差点越えて向こうの方 にこんな建物あったんじゃないかなぁ。もう一度近くに行ったら聞いてみて!」
私「ありがとうございます。すぐに行ってみます。」
車「気をつけて!」
 教えてもらった辺りに到着、それらしい建物は見つかるが確信が持てないので、ちょうど買物から返って来て家に入ろうとされていたご夫婦に尋ねました。
私「すいません。遠くから来たので教えて下さい。あの建物はこの写真の建物ですか?」
家「そうじゃないかなあ、多分そうだ(と奥さんに見せ同意を求める)」
 「そうだと思うんだけど、ちょっと形が違うような。この写真古いですよね。」
 「(ご主人思い出したように)そうだ。確かに以前はこんな感じだったような、でも向 かいの建物の壁がこれで間違いないので、あの建物です!」
 みなさん本当に親切でした。市民が一体になって町づくりが進みそうな感じで、何だか幸せな気分で町を後にしました。

県下屈指の呉服商として繁栄した山丹の耐火耐震建物  裏に蔵も残る田中園茶店、修景された第一号店舗

 

 

54 伝建地区-白馬・戸隠

1 車中泊とハンディ扇風機
 中央高速の屏風山PAで車中泊、5時前に目覚めました。相変わらず周りはトラックだらけですが、遠くに瑞浪の町並みと青空が見えとても清々しい朝です。エンジンONのまま朝までというのはNGにしているので、全国的に猛暑のこの季節、もう車中泊は無理かなと思っていました。それでも中央道を走るに連れ気温が下がり、寝る前は24℃でしたから、ハンディ扇風機で結構快適に眠れました。

平日移動で使える割引は深夜割引(3割引)、前日夜に出発するとお得感があります!

2 雪の残る山々と白馬青鬼
 松本市辺りから遠くの山々に雪が残っています。青木湖を過ぎた辺りではだんだん近くに見えるようになり、白馬村に入ると圧巻の光景でした。そこから更に山に入り青鬼地区を目指します。道中は舗装はされているものの細い林道、幅寄せや離合の苦手な人は躊躇する道で、対向車が来ないことを祈りながら無事白馬青鬼集落の駐車場に着きました。ここは20台近く停めれる広さがビジターに分かりやすく設置されていて、ありがたい感じです。
 この地区はなだらかな南斜面の傾斜地に沿って、同じ高さに15軒の家が列になり2段に並んでいました。鉄板で覆われた伝統的な茅葺き家屋が規則的に並ぶ様子は、印象的な農村風景を形成しています。遠くに棚田を見ながら集落内を一回りし、高地の爽やかな雰囲気を堪能出来ました。

ウィンタースポーツのメッカ白馬村、夏でも雪が残り列島を猛暑が襲う中、COOL感に癒されます。

3 山上の伝建地区戸隠
 ここ戸隠は青鬼地区より遥かに高地でした。ただアクセスは良く、バードラインなど快適なドライブですが、ただ一ヶ所驚きの場所がありました。戸隠道「七曲がり」です。その名の通り180度向きを変えるカーブが8回あり、屋根が付いていて(防雪用?!)路面も悪く道幅も狭い上に、地元の車なのか結構なスピードの対向車が多く、カーブではヒヤッとしました。帰宅後、Googlemapで確認しクチコミを見ていると、みんな相当難儀している様子が伺え、行く前に読んでいたらここは避けたと思います。
 戸隠神社は、宝光社も中社もお参りしましたが結構な参拝者の数で、関西の者にはなぜこんな山上にこれほどの人が来ているのか不思議でした。長野市観光情報センターのサイトを見ると「鎌倉時代には高野山比叡山と並ぶほどに栄えた霊場」とあったので、ようやく合点が行きました。ここは宿坊街としては初めての「伝統的建造物群保存地区」で、建物を中心にその周りに農家、商家等からなる門前町が拡がり、歴史ある信仰集落としての町並みを良く伝えていました。

急傾斜の石段270段、途中で休憩している人も多く見かけましたが、60代シニアの意地で登り切りました!

 

53 木曾路の伝建地区

1 訪問のための準備-Google mapの活用
 久々の伝建地区訪問の旅に出て来ました。
 一ヶ月前に四国を終えた時点で、全国の伝建地区126ヶ所の内86ヶ所を終えているので、残りは40ヶ所、特に多く残している地域は関東地方・甲信越地方そして九州地方です。この中で比較的近い木曽・信濃路がターゲットにしました。予定を立てる時はポイントは以下の手順です。
【手順】
・訪問地をリストアップする(全13ヶ所)。
・地図(Google map)の上にマークし、ルート機能を使って訪問順を確認する。
・共有機能(リンクをコピー)でURL(https://goo.gl/maps/N9wSyc8f75vyPeyU8)をスマホに送っておく。
・訪問場所は住所でも確認し、出発前にカーナビに入力を終えておく。
・冷静に全体を俯瞰出来る自宅ならではの作業で、PCだからこそ可能。
・以上、時間ロスを防ぎ旅の質を下げないための弾丸ツアー必須の準備です。

2 旅のスタート-奈良井宿
 大内宿や角館と並んで、伝建地区の中では最も期待していた場所でした。昭和53年、全国で11番目の伝建地区指定で、倉敷や知覧・高山よりも早いのでかなりの「老舗」です。中山道鳥居峠が大変な難所で、麓の奈良井宿で多くの人が宿を取るため、最盛期には「奈良井千軒」と呼ばれ賑わった宿場町だそうです。
 伝建地区はエリア指定なので、どこを目指して行くのか結構悩む時があります。中心部に駐車場併設の案内所があるというのが理想ですが、ここ奈良井宿は隣接の道の駅があるため安心して向かえました。更に近くて線路を渡りやすい場所にスペースがあることを、Googleマップやストリートで確認していたのでラッキーでした。下調べが功を奏し笑顔になる瞬間です。前向きな気持ちでいると積極性が出て、町の人にも尋ねやすくなります。「線路を横切る道はこちらで大丈夫ですか?」、「良いよ。このまま向かうとすぐ見つかるわ!」、明るい問いかけには明るく答えて貰えます。
 家と家の隘路を抜け通りに出ると「あっ!」と声が出ました。予想通り壮観な町並です。町家の大部分が街道に並んで間口いっぱいに建ち、二階を一階より張り出した造りで軒が深く、独特の町並を形成しています。何度も写真では見ていたものの圧巻でした。

道の駅横の木曽の大橋。樹齢300年以上の総檜作りの太鼓橋は橋脚を持たない木製の橋としては日本有数。

歴史を感じる町並と明治天皇行在所の上問屋(国重要文化財)・脇本陣の伊勢屋・旅籠屋の徳利屋

3 隣接する伝建地区-木曾平沢
 江戸時代より漆器業で繁栄し、今なお日本有数の生産地として栄えていて、中山道沿いには漆器店が軒を連ねています。町外れの道の駅「木曽ならかわ」は、道の駅と言うよりミュージアムのような場所で、木曽の漆器、木材加工製品の展示と販売がされていて見応えがありました。

 

52 観光日本の復活

1 もう一つの天橋立
 関西一円に広がった京都府民割(きょうと魅力再発見旅プロジェクト)を使って、丹後半島に出かけてきました。宿泊割引5,000円とクーポン券2,000円、夫婦で14,000円お得な旅でした。
 これまで魅力を感じながらも、少しアクセスが遠かった第二の天橋立「小天橋」、ここのほぼ中央にある「みなと悠悠」の予約が何とか取れました。到着すると、旅行割のせいか駐車場は一杯、フロントの話では連日満員が続いているようで、コロナで疲弊した観光業もようやく明るい兆しが見えたようで、ホッとしました。
 砂州の真ん中にあるだけに宿からの景色は素晴らしく、日本海久美浜湾も望める絶好のロケーションです。しかも日本海に沈む夕陽を見ることができ、良い日に来れたと他のお客さんとも話していました。

宿の前には久美浜湾とそのシンボル甲山、背後は日本海でこの日は夕陽が沈む瞬間まで見えました!

2 豪商稲葉本家
 久美浜は、江戸時代に幕府直轄領の中心として栄えた町で、久美浜縣が置かれた時期もあり、今も町のいたる所に歴史を感じます。町並も伝建地区に手を挙げられそうな雰囲気の場所でした。その中心は「豪商稲葉本家」で、織田信長の家臣稲葉一鉄にルーツを持つ家のようで、北前船で財を成し明治18年京都府高額納税者番付トップに名前が見つかります。歴代の当主は衆議院議員久美浜町長なども務め、私財を注いで久美浜豊岡間の鉄道開通を実現させたそうです。
 これまで日本各地の伝建地区で「○○家住宅」を見てきましたが、その規模からも活用のされ方からも(市の観光交流施設)、トップクラスの建物でした。屋敷内の建物を生かしたカフェからは素敵な庭が垣間見え、名物の「ぼたもち」でコーヒーをいただき旅の印象が一層高まりました。

建物内部も庭も素晴らしい場所でした。町並も伝建地区の雰囲気で、合併前にはその話もあったようです。

3 和久傳ノ森
 和久傳はミシュランの星が付く京都を代表する老舗料亭です。そのルーツは明治の京丹後で、故郷の地に食品工房が立ち上げられこの名が付いています。更地であった土地に、地元だけでなく全国から集まった人々で植樹が行われ「和久傳ノ森」が造られました。
 その場所に、安藤忠雄氏の手がけた美術館「森の中の家 安野光雅館」が佇んで素敵な空間を構成しています。大好きな建築家でしたので、オープンした年に一度来ていましたが、今回再訪です。安野氏の「洛中洛外」が多数展示されていて、至福の一時を過ごせました。

何度来ても敷地内に入った瞬間から心が癒される空間です。併設のレストランも非常に賑わっていました。

4 丹後大震災の断層
 帰路、「郷村断層」(ごうむらだんそう)に寄りました。
 昭和2年、この地を襲った大地震で大きな被害を受けた丹後地方ですが、長大な断層が生じ、学問的にも貴重な痕跡で国指定の天然記念物となっていました。特に水平方向のずれが残っているのが珍しく、ずっと以前から立ち寄ってみたい場所でした。

 

 

 

51 広島カープファン

1 広島市民球場
 40年来のカープファンです。学生時代を広島で過ごし、父譲りの阪急ブレーブスファンからカープファンに変わりました。
 きっかけは広島市民球場に行った事でした。客席が満員と言うだけでなく、一番上の通路まで二重三重にファンがいて、ランナーが出た時と山本浩二の打席の時は、コンバットマーチが鳴ります。それまで野球場と言えば、歓声と拍手そしてヤジ程度だった時代に、球場全体で音楽に乗せて「かっ飛ばせコール」や「浩二コール」で盛り上がる、そんな異次元の体験にすっかり嵌まってしまいました。
 そして大学4年生の時、広島が優勝します。山本浩二衣笠祥雄江夏豊、レジェンド達の時代です。「江夏の21球」は三越百貨店の街頭テレビで見ていました。見知らぬ隣の人と手を取り合って喜んだのが懐かしい思い出です。

2009年新スタジアムが開場した直ぐのGWにMAZDAスタジアムに出かけ、ヤクルト戦を応援して来ました。

2 マツダスタジアム
 長い低迷期がありましたが、抜け出す伏線は新球場にあったと思っています。野球場に来ることの楽しさを感じるスタジアムで、関西在住の私には何か広島という町の雰囲気まで変わったような気がしました。そして新井や黒田が帰ってきて25年ぶりの優勝へとつながって行きます。
 V2の2017年、優勝が決まった阪神戦、その甲子園のチケットを持っていました。夏に雨天中止となった試合の代替ゲーム、優勝が決まるとしたら、そして関西人の私が立ち会えるとしたら、ここしかないピンポイントで入手していたチケットです。ところが重要な仕事が入って行けませんでした。代わりに娘と阪神ファンの妻が行ってくれ、広島ファンの中で応援してくれました。
真っ赤なスタンドで応援、最後のバッターを打ち取った瞬間、緒方監督胴上げに立ち会えなかったのが残念!

3 鈴木誠也のユニフォーム
 還暦の年、「赤いちゃんちゃんこは嫌だなあ!」と思っていた私の気持ちを知ってか、家内や子ども達がプレゼントしてくれたのがカープのユニフォームでした。一ヶ月程前、娘が珍しく「今年も広島強いけど、父さんはカープの誰が好きなん?」と聞くので、「そりゃあ鈴木誠也!」と答えたのですが、合点がいきました。今も書斎の壁に飾る伝説の「51 SUZUKI」のレプリカユニフォームです。

家族のくれた鈴木誠也選手のユニフォーム  友人の送ってくれた優勝翌日の広島の様子(八丁堀・金座街)

 

 

50 太陽光発電のこと

1 我が家のきっかけ
 2010年、我が家は太陽光発電を申し込みました。当時、再生可能エネルギーを固定価格で買い取ってくれるFIT制度のお蔭で、買取価格は1kw48円(10年間)、購入価格が1kw24円ですから大変お得な制度でした。
 最初はやや消極的でした。私はまた住宅にお金を使う事を億劫がっていましたが、国や市の補助金の話に後押しされました。家内は屋根の上にパネルが載る事を嫌がっていましたが、シャープが屋根瓦と一体になった商品を開発しクリアとなりました。最終的に積水ハウスの担当セールスに後押しされ、決心しました。

 フリー画像より

2 10年経過してみて
 新築10年も経っていないのに再び足場が組まれたので、近所の方も興味津々でしたが、太陽光パネルの設置と分かるといろいろと聞いて来られました。完成後はパネルが載っていないのを不思議がられましたが、説明すると逆に「お洒落ー」と言う反応でした。
 当時は発電パネルを見ながら、今日は最高記録が出た!とか今月は黒字になりそう!とか盛り上がっていましたが、だんだんそれも慣れとうとう10年が経ちました。そこで今後の事を考え、年間の収支を数値化してみました。

足場を上がりパネル一体化の屋根瓦を撮影、落ち着いた感じです。右は発電量表示パネル、金額も分かります!

3 表や図にしてまとめる
 まずパネルを操作しデータを1年間遡って一覧表にしました。

 次に、発電していること・売っていること・使っていること・買っていることの関係がややこしかったので、図にしてみました。

 最後にデータを整理して1年間分をまとめました。10年間で約150万円程利益が出ていました。

 もちろん200万円程の初期投資がありますので、後数年経たないとペイ出来ませんが、その後も設備が順調に稼働すればプラス計上に変わります。何より環境に良い事に取り組んで来たという歴史が残っています。シニアになって昼間在宅で自家消費分が増えるので、その分も後押ししてくれるかなと期待している所です。

 

49 私の畑作り

1 幼い頃、家に牛がいた
 高度成長期の農村で育ちました。幼い頃はまだ機械化が進んでいなくて、牛が動力です。田起こしや代掻きなど、大きな鋤を堂々と引く牛とそれを操る父の姿は、実に頼もしい感じでした。子を産んだ時もあって出産シーンは鮮烈な記憶です。肉牛として飼われていたので、数年経てば市で売られて行きました。別れの日は子ども心に寂しかったのを覚えています。

 フリー画像より

2 プランター菜園のこと

 今は都市部に住み農業とは無縁ですが、シニアになって時間的な余裕ができ、野菜でも植えようかとなって来ました。と言っても畑がないので、プランター菜園で大きめの容器になすやトマトなど数本です。今年は遠くに借りた畑にサツマイモを植えました。根が付けば放っておいても大丈夫だろうという横着農業です。

道からよく見えるようになり話題が広がります。サツマイモ、秋には孫達と芋掘りハイキング・・・・!

3 犬と地域のコミュニケーション
 野菜が育ち道からも見えるようになり、近所の方に声をかけられました。みんな同じ様な年代です。現役を引退し時間が余っているのか、趣味や時間の使い方がよく話題になります。全国の伝建地区や一宮・100名城巡りの話は、相手を選んで話さないと、呆れられたり逆に白けさせたりするので、野菜の話題はちょうど良い感じです。
 そう言えば黒柴りゅうが元気だった頃は、散歩の途中でご近所さんと立ち話が弾みました。早起きと散歩という健康づくりと、地域とのコミュニケーション作りを進めるため、もう一度犬を飼っても良いなと「少し」思うようになったこの頃です。

ご近所のドーベルマン家族とドッグランに行きました。他の家族も含めて犬の話題で大盛り上がりでした!

 

 

48 作家山本兼一氏のこと

1 山本作品との出会い
 学生時代から司馬遼太郎作品のファンで、彼が亡くなった時(1996年)は本当に残念でした。しばらくは藤沢周平氏や山本一力氏のような時代小説を楽しんでいましたが、やはり歴史上の人物を史実を踏まえて扱い、その時代をリアルに感じさせてくれる司馬作品の魅力は忘れがたく、男性的でスケール感の大きい作品の登場を心待ちにしていました。
 ある日書店で『火天の城』という風変わりなタイトルの小説と出会いました。中を見ると時代小説的な人情話ではなく、安土城築城の城大工が主人公でそこに武将や合戦が絡んで行く、まさに私が待っていた世界を描いた作品でした。しかも主人公が信長ではなく棟梁の岡部又右衛門(この人物も実在)ですので、よりリアルに物語の世界を味わえるようになっていました。

2 作者との出会い
 そんな時、ある事がきっかけで、その山本兼一氏に仕事を依頼する事になりました。担当の私は氏の事務所(と言うより工房・アトリエ?!)を伺い、打ち合わせを進めました。協議が終わり「私的な事で申し訳ありませんが・・・・」と話すと「どうぞどうぞ」と笑顔で応えて下さったので、私が司馬遼太郎亡き後、山本兼一作品の大ファンであったこと、ちょうど出版された『雷神の筒』を読み終えたばかりで、感動の余韻覚めやらない状態であること、など熱く語っていました。
 氏は相槌を打ちながら楽しそうに聞いて下さいました。その場では多くを語られませんでしたが、後日やり取りした手紙の中に、その時の事をこんな風に書いて下さっていました。
『拙作のご感想ありがとうございます。まさに私の狙いを真正面から受けとめて下さっておいでで、書き手として大いに励まされます・・・・ 』

氏から頂戴した和紙の名刺 著書に書いていただいたサイン

3 直木賞作家に
 翌年、氏は『利休にたずねよ』で第140回の直木賞を受賞されました。後の直木賞作家と語り合って手紙をやり取りし、『雷神の筒』の火縄銃を持たせていただき、その弾をお土産に頂戴し・・・・、何とも素敵な時間を過ごしたことになります。シニアになって一層歴史好きになり当時を振り返る時、時間のかけがえのなさを痛感します。
 そのわずか六年後、氏は52歳の若さで旅立たれました。ただその作品は、今も私の本棚の一角で輝きを放っています。

※画像は何れも「版元ドットコム」より

 

 

47 山城訪問40を越える

1 山城の魅力
 大河ドラマ麒麟がくる』の光秀ブームに影響を受け、丹波の山城を手始めに各地の城跡に出かけるようになり、訪れた山城は40になりました。

 戦国時代、実際に合戦の舞台だったのは山城です。現地を訪れると、石垣や堀切・土塁や曲輪などの名残から往時の姿が甦って来ます。天守や櫓など立派な建造物は残っていませんが、「この道を歩いたのか」とか「ここに陣を構えたんだな」など、戦国武将が近しい存在に感じられるのが山城の魅力です。
 各地に残る立派な天守は戦国時代の後に築かれ、今の市役所の庁舎のようなもので、実際に戦いがあった訳ではありません。歴史のダイナミズムは、より山城に感じます。山城トレッキングのブームに代表されるように、健康づくりにもぴったりです。

日本五大山城:月山富田城(尼子)・小谷城(浅井)・観音寺城(六角)・七尾城(畠山)・春日山城(上杉)

2 八木城の魅力(アクセスと見晴らし)
 何度も訪れている山城に八木城があります。JRも国道9号線も共に麓を通っていてアクセスがよく、登山道も整備されているのでお薦めの山城です。比高210mですから40分程度、一汗かいた頃に本丸に着きます。眼下に八木の町並と大堰川保津川)が見下ろせ、正面には愛宕山、そしてサンガスタジアムなど亀岡盆地の全域が見渡せるので、疲れも吹っ飛びます。遠く老の坂峠までよく見通せますので、都からの軍勢などすぐに見つかったであろうことが分かります。

亀岡市の月読橋から見た八木城本丸と、八木城から見下ろした月読橋(国土地理院地図に彩色)

3 八木城の魅力(歴史と城主)
 歴史的なバックボーンにも惹かれます。丹波国の守護は管領細川氏で、その守護代を務めた内藤氏の居城が八木城です。城域は約1km四方に渡る広大な城で、黒井城・八上城と合わせ丹波三大山城と呼ばれます。松永久秀の弟「松永長頼」が婿養子に入り「内藤宗勝」となって活躍した時代に、ほぼ丹波全域を勢力下に置いたと言われています。長頼(宗勝)は兄以上に戦上手だったと言われ、内藤如安の父に当たります。
 内藤宗勝には一次資料も多く残り、地元の博物館で取り上げられた際は、見学した後学芸員に質問したり、図録を買い求めたりしました。丹波戦国大名としてもっと知られてほしいと思っています。

八木城本丸(案内板・ベンチ設置)、冬には雲海が見られ、周辺に土塁・石垣・堀切が広がっています。

特に大堀切は西側に多く、波多野対策でしょうか・・・

 

 

46 第1次アウトドアブーム

1 バブルの崩壊とRVブーム
 1990年代のアウトドアブームは、バブルの崩壊が関わっていました。
 80年代の後半から90年代の初め、我が国はバブル経済の真っ只中で、オフィスでの私の仕事スペースよりも壱万円札を敷き詰めた方がはるかに安く、日本全土の地価がアメリカを上回ると言われた時代です。今から思うと夢のようで、日本ではクリスマスイブのホテルのディナーに若者が殺到していたのに対し、アメリカの若者がピックアップで野山に出かけるのを、テレビは半ば同情気味に報道していました。
 しかし程なくバブルは崩壊、時代のムードは一瞬で変わり、お金を掛けずに過ごせるアウトドアライフとRV(Recreational Vehicle:ミニバン、ワゴン、四駆・SUVなど)ブームの相乗作用で、一気にオートキャンプ全盛の時代となりました。

【左】1994孫太郎オートキャンプ場 【中】1994播磨日時計の丘 【右】1995オートリゾート滝野

デジカメがなかったため写真は記念撮影中心、キャンプ場のものはほとんどなく苦労して見つかりました!

2 我が家のキャンプ事始
 その頃新しい冷蔵庫を購入したのですが、その東芝のサマーキャンペーンで家内が一等賞を当て、アウトドア用のテーブル・椅子と食器一式、クーラーボックスのセットが労せず手に入りました。後はテントだけです。生協がカタログで扱っていたのでその緑のテントを購入し、ファミリーキャンプをスタートさせました。
 ちょうど娘や息子が保育園から小学生になり、子ども達はお出かけ大好きの時代、親は連れて行って一番楽しい年頃、連休や夏休みを利用して各地に出かけました。しかも各地に出来始めたリゾートの様な美しいオートキャンプ場に、家族4人が一泊5,000円程度で泊まれるので、これまでの予算で2・3回出かけることが出来ます。その内、職場の先輩や子どものピアノ教室で仲良くなった家族と一緒にキャンプするようになり、楽しさが一層増していきました。

インフレータブルのカナディアンカヌー(3人乗り)を買いました。左は四万十川、中右は岐阜県椛の湖

3 三家族での合同キャンプ
 その三家族で、東は富士山から西は四万十川まで出かけました。当時は携帯電話がまだない時代なので、トランシーバを購入して連絡を取りながら移動していたのですが、これを子ども達が楽しく使って、車の中でクイズを出したり歌を歌ったり、まるで学校の遠足のような感じで楽しんでいたのが、ついこの間の事のようです。
 今またブームが到来し、孫を連れてキャンプ出来たら楽しいなと思っています!

30年ぶりに買ったアウトドアグッズ「小川テント・カーサイドタープ」、一人でのキャンプ場利用は割高のため、伝建地区訪問では車中泊に変更!(やや高い買い物になりました。早く活用出来る日が来る事を・・・!)

 

45 再びりゅうの思い出

1 近所の方のお話し
 今日は自治会の「歴史探訪ウォーキング」に妻と二人で参加してきました。大河ドラマにちなんで、地元に残る源氏ゆかりの地を巡る8km程の道のりでしたが、梅雨の合間の好天に恵まれ気持ち良く歩いてきました。
 移動中近所の方と話していて、我が家のりゅうの話題になりました。「りゅうちゃんが元気だった頃、孫とよく見に行ってました。ぐずったりしていても、りゅうちゃん見に行こうか!というと、すぐ機嫌を直して会いに行ってましたよ!」と言われ、愛犬が他所様のお役に立っていたことに驚きそして嬉しく感じました。庭の外構を工夫していたので結構自由に動き回れて、前の道路から声をかけられると、フェンス越しにご近所の方とコミュニケーションしていたようです。「りゅうちゃんがいなくなり寂しくなりました!」と言われたので、少し最期の様子を話していました。

娘の描いたりゅうの肖像画と元になった画像

2 介護の始まり
 亡くなる半年前、頬が膨らんで様子がおかしいので、いつもの獣医さんに見てもらうと、すぐに設備の整った動物病院を紹介され、そこで癌と判明して手術を受けました。口元はきれいになりホッとしましたが、残念ながら余命三ヶ月と言われ、介護する生活が始まりました。
 ずっと庭飼いで夜だけ玄関の三和土にいたので、部屋に上げると申し訳なさそうな顔で健気でした。昼間は仕事でいませんので、近くにワイヤレスカメラを置いて娘や息子達も一緒にスマホで見守り、動きの感じられない時はマイクで呼びかけ元気付けていました。

元気だった頃のりゅう。近所の方や子ども達が道から見ると、犬小屋や玄関前によくいた!

3 最後の夜
 4月18日、いつものように「りゅう、お休み!」と言って離れようとすると、遠吠えの様な声で「ワォー」と鳴き、前脚を宙に浮かせて「おいでおいで」の動きをするので、妻と二人で「いよいよ今夜かな」と言いながら可哀想になり、三人!?で一緒に寝ました。
 翌朝、まだしっかりとした反応があったので、安心して出勤しましたが、昼過ぎに娘から「父さん、何だかりゅうが動いてない気がする!」と連絡が入り、飛んで家に帰りました。玄関扉を開けると、穏やかな顔で横になっているりゅうが迎えてくれました。まるで「急いで帰ってきてくれてありがとう」と言っている様な感じでした。
 その晩はお通夜で、りゅうが好きだったおやつやブロッコリーを「棺」に入れてやり、翌日ペット用の霊柩車が迎えに来てくれて見送りました。以来、まだ次のペットを飼う気持ちにはなっていませんが、ただ次も「黒柴を飼おう」と言う気持ちは夫婦共通です。

外飼いだったので、室内に上げると申し訳なさそうな顔で健気だった。

44 お気に入りのLPレコード

1 アナログ復活の時代
 今回はアナログレコードの話題です。
 アナログの音の良さについてはハイレゾ以上ではないかと感じていましたが、ダ・ヴィンチWebに納富廉邦氏が、『結局、「アナログレコード」が良いに決まっているのだ』 https://ddnavi.com/review/438355/a/ と言う文章を書かれていて、我が意を得たりという感じでした。当時、レコードよりもCDの方が音質が良いと感じていたのですが、デジタル録音で音源そのものが良くなっていたことと、パチパチというスクラッチノイズが皆無なことで、その様に信じ込まされていたような気もします。

2 レコードの音
 ともあれNo.24の記事「閑話休題-オーディオのこと」でも書いたように、退職後少し無理をして買ったレコードプレーヤー(Technics SL-1200GR・audio-technicaVM540)ですが、購入して最初にかけたのはショルティ・シカゴ響のブラームス交響曲第1番でした。第1楽章冒頭のティンパニーも凄い迫力で出て来ましたが、何と言っても第4楽章ホルンによる雄大なクララのテーマやその後の弦の合奏部では鳥肌ものでした。レコードを捨てずに残しておいて良かった、そう感謝した瞬間でした。

3 お気に入りレコードの紹介
 子育て期はオーディオとも音楽とも離れていました。狭い部屋では場所を取るし新しいディスクを買う余裕もなく、いつしか装置とともに300枚以上あったレコードを持て余すようになりました。その頃はまだ中古レコード店に持ち込むとそこそこの値段が付いたので、強い思い入れのあった100枚程を残して処分したのですが、それが現在奇跡的に手元に残っていたLPレコードです。その中からお気に入りの3枚を紹介します。

4 ショルティ・シカゴ響の『ブラームス交響曲全集』
 まず真新しいターンテーブルに最初に載せたショルティ・シカゴ響の『ブラームス交響曲全集』です。当時ショルティーの作る音楽は「設計図で描かれた建築物のようで無機的・機能的」と言った評価で、カラヤンバーンスタイン程には支持を得ていませんでした。アメリカのオケをヨーロッパの楽団より下に見る風潮があったのかも知れませんが、私は好きでした。全集を買っている位なので、彼の作る緻密で前進力のある音作りが大好きでした。

5 カラヤンベルリンフィルワーグナー歌劇ローエングリン
 次はやはりカラヤンです。1970年代80年代は圧倒的な人気でした。その分アンチカラヤンも多く、学生時代の私はまさにそれでしたが、働き始めて少しお金に余裕が出来、初めて買ったワーグナーの作品『ローエングリン』(5枚組)で彼の凄さに圧倒されました。この作品は『結婚行進曲』が有名ですが、白鳥に曳かれ騎士ローエングリンが登場するシーンは音のスケール感が圧巻で、多分100回近く聞いていると思います。

6 クラウディオ・アラウブラームスヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』
 オペラの後はシンプルにピアノ独奏曲です。南米チリ出身のクラウディオ・アラウ70代の録音でブラームスの『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』。神童として知られ5歳で最初のリサイタル、ベルリンでのデビューが11歳という恐るべき演奏家でした。独特の燻し銀の様な味わいが、仕事で疲れた身体を癒してくれるような感じで、大好きな演奏家でした。

 

43 紀伊国三つの一宮

1 一つの国に複数の一宮
 関西の一宮には比較的早くお参りしていたのですが、紀伊国だけは三つもあるのがややこしくて避けていました。一宮が複数ある所をどう言う扱いにするか決めかねていたのです。伊勢国越後国も二つありましたが、片方だけが巨大な神社でもう片方は我が家の氏神様よりも小さくて、どこか物足りなさが残りました。そんな訳で、時間も予算も限りある中なので「一国一つでいいや!」となったり、「いやいやそれでは駄目でしょう!」となったり心が揺れていました。
 越中国など四社あったので、高岡城の中にある射水神社が中心だろうと勝手に納得していたのですが、今になると全部行っておくべきだったと後悔が残っています。そんな訳で仕切り直しのような気持ちで和歌山に向かいました。

山の中腹より上の方に山岳集落が見えています。辿り着いた天野の里は世界遺産らしい景観の場所でした。

2 丹生都比売神
 三つの神社へのルートを決める際は、最後を大きい神社にしようと考え、最初にかつらぎ町の山中にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)に向かいました。ですが全くそんな事はなく、世界遺産の構成資産だけあって堂々たる一宮でした。境内の本殿・楼門は室町時代後期の建物で国の重要文化財秋篠宮ご夫妻が植樹までされていました。
 御朱印は手書きでした。頂きながら係の女性に「本殿の見やすい場所が、特別に作ってあってありがたかった」と御礼を言うと、御礼を言ったことに御礼を言って下さってさわやかな一時でした。
 それにしても京奈和道を走っている時から気になっていたのですが、紀ノ川流域の山の斜面には山岳集落がよく見られます。四国吉野川流域もそうですが、何か中央構造線と関係があるのでしょうか。

紀伊山地の霊場と参詣道」で世界文化遺産に登録されている神社、古来から高野山の鎮守社として知られる。

重要文化財の本殿、参拝者のために見学場所まで作ってあり、山道を上って参拝に来た喜びを感じました!

3 伊太祁󠄀曽神社
 次に訪れたのが伊太祁󠄀曽神社、「いたきそじんじゃ」と読みます。地名は「いだきそ」なのでややこしいです。近くに和歌山電鉄の伊太祁󠄀曽駅があって、単線なのでこの駅で上り下りの出会いがあるらしく、二つの車両を見かけたのでカメラを向けました。駅長たまがいるかなと調べましたが、時間が合わなかったので断念しました。
 ここも手書きで御朱印が頂け、次に訪れる日前神宮國懸神宮は大きそうな神社なので、和歌山は手書きが三つそろうのかなと期待したのですが、残念ながら最後で期待は叶いませんでした。

伊太祁󠄀曽駅で出会う「たま電車ミュージアム号」(左上)、いつかこれに乗ってお参りしてみたい。貴志川線日前宮や伊太祁󠄀曽神社への参拝者を運ぶことが目的だったようで、開業当初の終点は当駅だったそうです。

4 日前神宮國懸神宮
 そして三つ目の日前神宮國懸神宮、「ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう」と読みます。一つの境内に二つの神社がある珍しい場所です。規模も大きく一宮中の一宮のような雰囲気なので、御朱印を頂く場所で「三つの内ここが中心ですか?」と尋ねると、「私の所が一番古いんです!」と絶妙の答が返ってきました。
 それにしても残念だったのは、お参りした全国の一宮42社では、初めて境内が撮影禁止だったことです(二つとも重厚な本殿でした!)。おまけに御朱印が直書きで頂けないだけでなく、書き置きの札があまりにもカジュアルで、「ええっこれが500円か・・・・」と落胆の訪問になりました。

 出かける前までは、一つの国に三つで大変!という感じでしたが、三つあって良かった!と思い直しました。気分を取り直して、帰りのPA(御所の郷・新しい!)ではちょっと贅沢に、三輪そうめんと柿の葉寿司のセットをいただきました(笑)



42 北国街道の古い宿場町

1 宿場町のたたずまい
 福井県南越前町今庄宿は、慶長年間に福井藩主(結城氏)が北国街道に整備したのが始まりで、宿場町として繁栄し旅籠や茶屋などが軒を連ねたました。建物の多くは、江戸末期文政の大火の後、昭和三十年代にかけて建てられたもののようで、太い梁が張り出し豪雪地帯ならではのたたずまいを伝えています。

【左】今庄駅横の案内大看板 【中】昭和館横の脇本陣跡 【右】重要伝統的建造物群保存地区選定を祝う幕
2 地域の古老との話
 歴史的な町並みの中に近代的な建物(昭和初期に建てられた「昭和会館」国登録有形文化財)が見えたので、気になって道路端にあったスペースに車を止めました。案内を書いた大きな表示板もあったので読もうとすると、ずっとこちらを見ておられた高齢の女性が近付いて来ました。”マナーの悪い旅行者と注意されるのか”と緊張して待っていると、こんなやり取りが始まりました。
 女性「旅行者か?」(かなり御高齢、上から目線の言葉だが親しみを感じる!)
 私 「はい。古い町並みを見せてもらいに寄りました。」
怒られそうな雰囲気に見えましたが、意外にそうでもありません。
 女性「あんたは良い人につかまった。古くからのこの辺りのことを一番知っているのが私や。昭和の初めにここに生まれて、ずっとこの町で暮らしてきた。」
 私 「ありがとうございます。どの辺りを見ると良いですか?」
 女性「まずあんたが車を停めたその向こう、天皇陛下が休まれた場所や。今庄はそれで有名になった。反対側の立派な建物、全然古びたように見えんやろ。『昭和館』言うてこの辺りの偉人田中和吉さんが、自分の財産を使って建てられたんや。私らが若い頃は、南条郡の集まりは、青年団でも何でも全部ここであった立派な施設や。」
 私 「そんな昔の建物には見えませんでした。」
 女性「和吉さんの建物やからしっかり拵えたるからな。町並はいろんな建物があるけど全部古い。」
 私 「(それを見に来たんですけどとは言いにくい)。古い建物はどれを見るのが良いですか?」と聞くと、場所を指さしながらそれぞれの特徴・店の歴史を語って下さった。
 女性「何よりここは鉄道の町やった。たーくさんの人が国鉄で働いとった。そりゃもう当時は凄い賑やかやった。どの店もよーお繁盛しとった。駅には寄ったか?(まだだと答えると)大きな駅やったことが分かるから寄ってみ!」

【上】昭和館明治天皇行在所 【中】京藤甚五郎家と旅籠若狭屋 【下】堀口酒造と今庄駅弁の大黒屋

 四国出羽島で出会った高齢の男性も、船の時刻が気になる私の素振りをものともせず、津波と島の歴史など熱く語って下さったが、どこも年配の方が故郷の歴史を語る気持ちは同じで、シニアに足を踏み入れた私にはよく分かります。昔話はいくら貴重であっても、普段の会話では若い人には嫌がられるので、この様にブログなどにしっかり刻んでおきたいと思います。
3 北陸本線今庄駅
 明治29年北陸線敦賀・福井間が開通すると、ここは鉄道の町として発展して行きます。駅舎に併設されている「今庄まちなみ情報館」のジオラマを見ると、その繁栄ぶりが垣間見えました。我が国は山岳地帯が多く、鉄道が勾配のきつい場所を越えるのにはスイッチバックなど多くの苦労が伴ったようで、ここ今庄駅では全列車が停車し、山中峠を越えるため後ろにもう1両機関車を連結し、逆に敦賀から到着した列車は最後尾の機関車を切り離したため、給水給炭の設備と共に組み替えの路線も必要で大きな駅になったようです。
 この5分程の停車時間に駅では土産物や弁当、立ち食いそばなどがよく売れ、今庄そばの名を全国に広めたようで、今も駅前にそば屋さんを何軒か見かけました。町並の中には、かつて駅弁を出していた店も残っていて(大黒屋)、ソフトクリームの看板が店前に出ていました。

今庄駅の外観と構内、山間の駅だが多数の線路が並ぶ。駅併設の「今庄まちなみ情報館」にある鉄道ジオラマ

4 北国街道を帰る
 今庄宿のお年寄りのディープな話に感化されたのか、帰りは北陸道に乗らず北国街道を琵琶湖に向かいました。おそらくここを朝倉攻めの織田の軍勢や賤ヶ岳で破れた柴田軍が通ったであろう事を思う時、不便な山道もまた味わい深いものに見えてきました。

幹線道路をそのまま北陸道に向かわずに、山間の道「北国街道」に入って湖北木之本を目指す。

 

41 金沢城に圧倒される!

1 45年前に訪ねた金沢城
 金沢城は1970年代後半、高校時代の友人が金沢大学に進学していたこともあって、大学の2年生の時に訪れています。当時キャンパスは城内にあって、お城の遺構は少なかったような気がしていました。なぜ日本100名城に選ばれているのか不思議でしたが、息子が受験生の頃は新しいキャンパスに変わっていたので、大学が移転し整備されたと分かり、復元整備状況がどうなったか興味津々で訪れました。
 少し昔話ですが、私達が受験生の頃、関西の高校生の間で金沢大学は人気の大学でした。京都と並ぶ古都金沢、加賀百万石の城下町で旧制四高、まだ自宅に個室を持てない高校生が多かった時代ですから、下宿生活を送れば自室が手に入り、一国一城の主になれるような気分も大きかったかも知れません。

兼六園側から見た金沢城三御門の一つ石川門。二層二階建ての櫓と一体になっていて枡形内の石垣も美しい!

2 やはり実物は凄い
 金沢城天守が残っていませんでしたので、復元されたと言う報道で目にする写真も、長屋と櫓でしたからあまり迫力を感じません。家族旅行で金沢21世紀美術館を訪れ兼六園には入園していたのに、金沢城はスルーしていました。ところが実際に訪れてみると、写真とはスケール感が全く違いました。
 兼六園の側から現存する「石川門」をくぐり城内に入ります。この門は国の重要文化財だけあって存在感のある門でした。入口からこれならと期待に胸を膨らませ、三ノ丸に入って見渡すとそこには二つの櫓と長屋が一体となって(報道や案内で見かける光景)、凄い迫力で建物が広がっていました。五十間長屋と一体となった菱櫓・橋爪門続櫓です。金沢城最大の見所であるのがよく分かります。圧巻でした。

三ノ丸広場から眺める菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓、明治以降に建てられた木造建築物最大規模で圧倒的

3 北陸を代表する100名城
 橋詰門からから二ノ丸(二ノ丸御殿再建中)に入り極楽橋を渡って、残りの重文「三十間長屋」と「鶴丸倉庫」に向かいます。本丸の石垣や巨大な堀切を眺めながら再び三ノ丸広場に戻って来ました。小矢部川SAで車中泊し午前5時に目覚めた旅行者にとって、金沢城公園は7時から入園できるありがたい場所で、高知城に続きお城に圧倒された素敵な訪問でした。

重要文化財「三十間長屋」と「鶴丸倉庫」。石垣の三つの種類も実際に並べて展示していて分かりやすい。