黒柴りゅうの散歩道

日本各地の旅の記録(伝建地区と一宮そして100名城)

116 実家の裏山が山城!

1 丹波国守護代内藤氏の家臣
 私の実家は丹波山地の山深い場所なので、日本史とは無関係の場所だと思っていました。ところが八木城(丹波三大山城)を調べて行くうちに、生まれ故郷も守護代内藤氏の勢力下に組み込まれていて、幼い頃友人達と遊んだ「城山」が中世城郭(山城)であることが分かりました。名前は田原城(標高323m比高150m)城主は小林氏(日向守)、遠くから眺めると均整の取れた三角形の形で、波多野氏の八上城の様です。

【上】田原城全景 【中】田原城畝状竪堀・田原城堀切 【下】出城亀田城堀切と土塁

2 一番新しく見つかった居館跡
 昨年秋、歴史研究会の仲間16人で田原城に登りました。出城と言われる近くの亀田城も一緒に登ったのですが、見事な竪堀群や堀切・土塁など見つかりました。その時、城郭研究家の高橋成計先生が、「確か川向かいにも小林氏の城館跡があったはず!」と言われたので「そこは私の生まれた在所です。何か分かったら教えてください!」と頼んでおいた所、後日研究仲間が作成された地図と縄張図を送ってくださいました。よく見ると、その城館跡は何と我が家(実家)の裏山でした。「驚愕の事実」が判明しました。

3 まさかまさかの大発見
 裏山は竹やぶで、幼い頃から父と筍を掘り、稲木や竹箒の材料にする竹を切り出していた場所です。作業の際、平らな場所があって仕事がし易く、便利だなと思っていたら曲輪跡でした。比高があまりないので「館」と記載されていますが、立派な「山城」です。
 ちょうど、小林氏の居城「田原城」と出城「亀田城」そして我が家の裏山、三つの城で領地を守っていたのでしょう。若狭国につながる街道と、丹波山地を横切る街道が交差する交通の要衝です。川に尾根が突き出る場所を利用して築城されているので、水運にも持って来いの場所だったかも知れません。

【上】実家と裏山その背後に田原城 【中】主郭跡と土塁 【下】切岸と腰曲輪

4 これからの見通し
 退職後山城の面白さに目覚め、各地の山城を歩いていましたが(日本五大山城を含む約50城)、まさか自分の実家の裏山が山城とは思いもよりませんでした。灯台下暗しです。父が亡くなり竹が倒れて荒れっ放しになっていたので、上がりやすくするため少しずつ整備を進め、文化財になる日を夢見て頑張ろうと思います。(なお小林氏は、豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役)に出陣していたことが、石田三成発給の文書から分かっています。と言うことは我が祖先も朝鮮半島まで従軍していた可能性があります。日本史は意外にも身近でした!)

 p.s.今回の発見は山城ファンとしては本当に嬉しいことです(笑)

 

【続報】
三月下旬、城郭研究家の高橋成計先生にお世話になり、現場を詳しく見てもらって縄張図を書いていただきました。先生によると「戦闘を想定した造りに十分にはなっていないので、残念ながら山城とは言いがたい。居館跡ですね!」との事でした。
実家の裏山が山城、私が「新シ城」と命名!と言う夢は、あっけなく潰えました。
しばし良い夢を見させていただきました(笑)

 

 

111 飛鳥エリアの隠れた見所


1 大化の改新発祥の地「談山神社

 今井町を発ち明日香村石舞台古墳を経由して、多武峰(とうのみね)に向かいました。

 はじめに談山神社の由緒を要約します。
『蹴鞠会で出会った中大兄皇子中臣鎌足が、本殿裏山での極秘の談合の後、645年蘇我入鹿を討ち中央統一国家の偉業を成し遂げた。多武峰はこの後「大化改新談合の地」の伝承が残り、社号の「談山神社」はここから来ているそうです。
 後、天智天皇は、鎌足公の病床を見舞い、内大臣という最高位を授け、藤原の姓を与えました。藤原氏の始まりです。その後唐より帰国した長男・定慧和尚が、十三重塔と講堂を建立し鎌足公の御神像を安置して談山神社が始まりました。』
 先輩に勧められ「紅葉が綺麗だ」ということで何気なく立ち寄った場所でしたが、日本史を体現する凄い神社でした。重要文化財が驚く程に多い(15ヶ所)背景に納得でした。

2 国宝十一面観音「聖林寺
 その後聖林寺を訪ねました。高台にあるので飛鳥の地が見渡せ、大変素敵な場所です。本堂を経て回廊を突き当たると立派な収蔵庫、内部はガラス越しに360°どの方向からも見ることが出来、平日で友人と二人だったこともあり、正面のベンチでゆっくり座って拝観しました。写真は撮れませんが、本堂右に織物で再現されたレプリカがあったので、カメラに収めています。

 ずっと以前から一番に行く場所として先輩から誘われていた聖林寺、収蔵庫の修理が終わり今回やっと実現しました。さすがにフェノロサ和辻哲郎に絶賛された十一面観音です。奈良時代の作と言う点にまず驚きますが、均整がとれスケール感があり、表情豊かで動き出しそうで強く印象に残りました。これを機に国宝十一面観音7体を全部回ろうと言うことになり、観音様のお蔭でシニアの楽しみが増えました。  (下図:聖林寺HPより)

3 最後の最後で大失敗
 帰路、本場の三輪素麺を食べて帰る事に決め、プラススクエアのオーナーお薦めの「三輪山本」のレストランに入りました。木立に囲まれた大変綺麗な場所ですが、何故か私は「冷たいそうめん」を頼んでしまいます。「素麺と言えば冷えたのを食べてこそ!」と思ったのですがこれが大失敗、冷たさばかりが口に広がり本場の素麺を味わい損ねてしまい残念でした。冬はやはり「にゅうめん」で!

 

 

109 再訪「奈良橿原 今井町」

1 師走のプチ旅行「今井町への再訪」
 若い頃、職場が同じだった時の友人と半年に一度の約束で、畿内の歴史的な街や建物を中心にミニトリップしています。今回は奈良に旅して来ました。目的地は国宝十一面観音の「聖林寺」と伝建地区の「今井町」です。近畿地方は既にすべての伝統的建造物群保存地区を訪問し終えているのですが、電柱の地中化が進んだ「橿原市今井町」は再訪したいと思っていたので、良い機会になりました。随分昔に訪れ、写真が行方不明だったこともあり、友人には感謝です。

2 戦国期を自治都市として乗り切った今西家
 やはり電柱・電線がないと、見事な景観になっていました。今井町は戦国期、堺などと同じ自治都市で、町を環濠で覆い本願寺と結んで織豊時代を乗り切った歴史を持っています。その歴史を偲ばせる建物が密集する見事な街並や、町の歩みを象徴する建物「今西家住宅」(国重要文化財・要予約)や、立派な本堂を持つ「称念寺」(こちらも国重要文化財)などしっかり残っていて、重要伝統的建造物群保存地区の名にふさわしい町でした。今西家の御子孫でまるで学芸員のような女性の素敵な説明も、大変印象に残りました。予約しておいて良かったです。

 

3 シニアのひとり言
 いくつになっても人間は、手応えのある時間を送りたいと思っています。ところがその手応えは、自分でデザインしていく必要があるのでシニアは大変です。
 現役時代はそれを仕事が与えてくれていました。私生活でも子育てなど大変で、家を買うというビッグイベントもあります。つまり手応えだらけです。その時はそれが苦労の種だったのですが、実は二度と戻って来ない濃密な時間だった事に気付きます。シニアになりそれが身に染みます。もちろん神様から「では明日から戻してやろうか?」と言われれば「それは勘弁して下さい!」となるので勝手なものなのですが・・・・
 そんな訳で、旅行やブログの発信に加え職業人として復活です。

 

108 晩秋の便り

1 さつまいも収穫その後
 今年から始めた私の「横着農業」、夏は植え付けが終わればほぼ手入れがいらないさつまいもで良かったのですが(「49 私の畑作り」「89 私の畑作りその後」「105 芸術の秋 食欲の秋」)、収穫後の畑はどうするかいろいろと悩んでいました。

 かぶや大根を植えて漬物にすれば保存ができ、子ども達や知人に配りやすいなと考えてみたのですが、さつまいもを収穫できた10月中旬は既に植え付けの時期を過ぎていたので断念。そして今月に入って、ホームセンターの野菜苗のコーナーを見ていると、玉ねぎの苗がたくさん並んでいたので「これだ!」と思って買い求めました。調理方法が多く保存も可能なのでぴったりで、世話もそんなに大変ではなさそうです。
 子どもの頃は祖母の畑作りをよく手伝っていましたが、自分で作るとなると何もかもが新鮮で、冬にも作物が育つことがとても不思議でした。そんな事を思いながら、耕耘機で固くなっていた土を耕し、マルチを被せて玉ねぎ苗を植え付けると、何か充実感が湧いてきます。シニアが農業に惹かれる理由が分かります。
 さて来年のGW明け、どんな風になっているでしょうか!

2 晩秋の散歩コース
 私の散歩コースはいつも決まっていて、まず通勤通学の人の流れに乗って最寄りの駅に向かい、そこから小川に沿って大きな河川に出、その堤防をずっと歩いて自宅に戻る約3kmのコースです。堤防は遊歩道になっていて桜や松が植えられ、たくさんの人が歩いています。
 その河原側にたくさんのススキが群生していて、晩秋の趣を際立たせてくれます。毎日通る場所なのに、何度もスマホで撮っています。その都度「一眼レフを持って来れば良かった!」と思うのですが、重いカメラと共にする散歩は嫌なので(結構スタスタ歩く様にしている)仕方ありません。
 このススキの季節が終わると冬。そこで一句!「夕暮れに すすきの大波 秋が行く」

 

83 息子夫婦のお誘い

1 息子夫婦からのお誘い
 同じ市内に住む息子家族から、「一緒に旅行しよう!」と誘いがありました。こういう場合、費用はシニア持ちになる事も多いのですが、よく聞くと「就活の時に世話になった御礼をしておきたい」とのこと、二人の子の父になり少し親の気持ちが分かる様になったかと、家内と二人嬉しい驚きでした。
 当時リーマンショックの余波でまだ就活が大変だった時代です。懸命に取り組む子ども達を何とか応援してやりたいと「交通費とか一切気にすることなく、これを使え!」とまとまったお金を渡していたらしいのですが、私達夫婦には記憶に残っていませんでした。まあ子ども達も三十代半ばになり、余裕も出来てきたということなのでしょう。

2 想定外の北陸旅行
 まだ孫達も小さいので(6歳ともうすぐ2歳)、それ程遠くない場所と言うことで福井県の恐竜博物館に行くことになりました。宿は芦原温泉という旅程です。その道中で下の画像の場所(中部縦貫自動車道九頭竜ダム)は本来なら通りませんが、前日から豪雨災害で北陸道が閉鎖になり、東海北陸道から国道158号を経て勝山に入るルートを取りました(随分遠回りで大変!)。

3 世界三大恐竜博物館
 福井県立恐竜博物館は恐竜をテーマにした自然史博物館です。カナダのロイヤル・ティレル古生物学博物館、中国の自貢恐竜博物館と並び、世界三大恐竜博物館と称されているそうです。凄いですね。到着すると、恐竜の卵のような巨大な銀色のドームの中に入り、大迫力の恐竜の世界でした。全身骨格やジオラマ・化石など貴重な展示で、訪れる人々を楽しませてくれます。(上の画像は博物館HPより)

4 かつやまディノパーク
 恐竜博物館から歩いて5分もかからないところに、「かつやまディノパーク」はありました。この施設はウォーキングしながら楽しめるアミューズメント施設で、園内に多数の恐竜がいてさながら和製ジュラシックパークのミニチュア版といった感じでした。身体の一部が動き鳴き声を上げている恐竜が多数いるので、おっかなびっくり(特に孫達!)の楽しい一時でした。

5 越前松島水族館
 翌日は越前松島水族館です。恐竜博物館もそうでしたが、どちらの施設もよくコロナ対策が施されていることもあってか、多くの家族連れで賑わっていました。ようやく本来の夏休みが戻ってきた感じで、来年から小学校に入る上の子の事を思い、少し安堵する爺でした。

p.s.車は日産セレナe-POWER、6人乗っても快適な旅でした!

 

 

49 私の畑作り

1 幼い頃、家に牛がいた
 高度成長期の農村で育ちました。幼い頃はまだ機械化が進んでいなくて、牛が動力です。田起こしや代掻きなど、大きな鋤を堂々と引く牛とそれを操る父の姿は、実に頼もしい感じでした。子を産んだ時もあって出産シーンは鮮烈な記憶です。肉牛として飼われていたので、数年経てば市で売られて行きました。別れの日は子ども心に寂しかったのを覚えています。

 フリー画像より

2 プランター菜園のこと

 今は都市部に住み農業とは無縁ですが、シニアになって時間的な余裕ができ、野菜でも植えようかとなって来ました。と言っても畑がないので、プランター菜園で大きめの容器になすやトマトなど数本です。今年は遠くに借りた畑にサツマイモを植えました。根が付けば放っておいても大丈夫だろうという横着農業です。

道からよく見えるようになり話題が広がります。サツマイモ、秋には孫達と芋掘りハイキング・・・・!

3 犬と地域のコミュニケーション
 野菜が育ち道からも見えるようになり、近所の方に声をかけられました。みんな同じ様な年代です。現役を引退し時間が余っているのか、趣味や時間の使い方がよく話題になります。全国の伝建地区や一宮・100名城巡りの話は、相手を選んで話さないと、呆れられたり逆に白けさせたりするので、野菜の話題はちょうど良い感じです。
 そう言えば黒柴りゅうが元気だった頃は、散歩の途中でご近所さんと立ち話が弾みました。早起きと散歩という健康づくりと、地域とのコミュニケーション作りを進めるため、もう一度犬を飼っても良いなと「少し」思うようになったこの頃です。

ご近所のドーベルマン家族とドッグランに行きました。他の家族も含めて犬の話題で大盛り上がりでした!

 

 

46 第1次アウトドアブーム

1 バブルの崩壊とRVブーム
 1990年代のアウトドアブームは、バブルの崩壊が関わっていました。
 80年代の後半から90年代の初め、我が国はバブル経済の真っ只中で、オフィスでの私の仕事スペースよりも壱万円札を敷き詰めた方がはるかに安く、日本全土の地価がアメリカを上回ると言われた時代です。今から思うと夢のようで、日本ではクリスマスイブのホテルのディナーに若者が殺到していたのに対し、アメリカの若者がピックアップで野山に出かけるのを、テレビは半ば同情気味に報道していました。
 しかし程なくバブルは崩壊、時代のムードは一瞬で変わり、お金を掛けずに過ごせるアウトドアライフとRV(Recreational Vehicle:ミニバン、ワゴン、四駆・SUVなど)ブームの相乗作用で、一気にオートキャンプ全盛の時代となりました。

【左】1994孫太郎オートキャンプ場 【中】1994播磨日時計の丘 【右】1995オートリゾート滝野

デジカメがなかったため写真は記念撮影中心、キャンプ場のものはほとんどなく苦労して見つかりました!

2 我が家のキャンプ事始
 その頃新しい冷蔵庫を購入したのですが、その東芝のサマーキャンペーンで家内が一等賞を当て、アウトドア用のテーブル・椅子と食器一式、クーラーボックスのセットが労せず手に入りました。後はテントだけです。生協がカタログで扱っていたのでその緑のテントを購入し、ファミリーキャンプをスタートさせました。
 ちょうど娘や息子が保育園から小学生になり、子ども達はお出かけ大好きの時代、親は連れて行って一番楽しい年頃、連休や夏休みを利用して各地に出かけました。しかも各地に出来始めたリゾートの様な美しいオートキャンプ場に、家族4人が一泊5,000円程度で泊まれるので、これまでの予算で2・3回出かけることが出来ます。その内、職場の先輩や子どものピアノ教室で仲良くなった家族と一緒にキャンプするようになり、楽しさが一層増していきました。

インフレータブルのカナディアンカヌー(3人乗り)を買いました。左は四万十川、中右は岐阜県椛の湖

3 三家族での合同キャンプ
 その三家族で、東は富士山から西は四万十川まで出かけました。当時は携帯電話がまだない時代なので、トランシーバを購入して連絡を取りながら移動していたのですが、これを子ども達が楽しく使って、車の中でクイズを出したり歌を歌ったり、まるで学校の遠足のような感じで楽しんでいたのが、ついこの間の事のようです。
 今またブームが到来し、孫を連れてキャンプ出来たら楽しいなと思っています!

30年ぶりに買ったアウトドアグッズ「小川テント・カーサイドタープ」、一人でのキャンプ場利用は割高のため、伝建地区訪問では車中泊に変更!(やや高い買い物になりました。早く活用出来る日が来る事を・・・!)

 

34 昭和の車 令和の高速

 今回の旅で徳島市高知市は数十年ぶりに訪ねました。どちらも昭和の頃とは見違えるように美しくなっていて、電柱の地中化が進んだこともあり県庁所在地に相応しい装いになっていました。随分と時間が経ったことは「車」や「高速道路」でもよく感じ、運転しながらかつてを回想しました。

1 昭和の車の記憶
・社会人になって数年、ディーラーで働いていた友人に奨められ新車を買うことになりました。モデルチェンジしたばかりのTOYOTAカリーナ1.5ST、最高出力83ps/最大トルク12kgm、5足MT(Low→Second→Third→Top→HighTop)で、高速でのドライブが楽しくなりました。カーブに入る前でThirdに落としての運転は、ATにはない醍醐味です。
・ちなみにCX-5は、最高出力200ps/最大トルク45kgm、隔世の感があります・・・・!
・乗用車はセダンかクーペの時代で、若者の多くはクーペです。ワゴンやハッチバックは、商用車か軽自動車のイメージでした。
・装備にナビはなく、カーステレオやエアコンでさえオプションの時代です。しかもこのクラスの車は、まだパワステ・パワーウィンドウではありませんでした。
・昭和はナンバーが「大」「兵」「京」「滋」「奈」と1桁、全国どこも頭1文字だったので「鳥」「熊」「鹿」などがあり、今思えば楽しい感じです。そしてフェンダーミラーです。しばらくしてドアミラー規制が撤廃されました。
・ホイールはスチールが当たり前で、アルミホイールは高嶺の花。バンパーも鉄製から樹脂製に切り替わって行く頃です。

(左)3代目TOYOTAカリーナ、コロナの姉妹車です。  (右)車中泊で目覚めると周りはトラックだらけ!

2 高速道路の変化
・高速道路だけがシートベルト着用の義務があったので、インターに入るとカシャッと閉めます。時速100km/hを超えると「キンコンキンコン」とアラームが車内に鳴り響きました。
・最大の違いは料金所です。ボックスの中に係の人がいて、出発インターで受け取ったチケットを渡すと料金を言われ、お金を渡す仕組みでした。ハイウェイカードができ、 釣銭の手間が省け便利になりましたが、現在のETCとは比べるべくもありません。台湾のように(料金所がない)、高速道路上のセンサーで収受が終わるシステムになれば、更に便利です。
・ネットによる通販が当たり前になり、近所で買える物まで遠くからやって来るので、高速道路はトラックで溢れかえっています。SA・PAに入れないトラックさえ見かけます。これは進化と言えるのでしょうか?

 

24 閑話休題-オーディオのこと

 読書に続きオーディオの事です。価格ドットコムを見ると「ポータブルオーディオ」と「ホームオーディオ」に分かれていますが、昭和世代にとってのオーディオはあくまで「ホームオーディオ」です(SONYからウォークマンが出たのは1979年)。

1 昭和のメード・イン・ジャパン
 昭和の後半は「made in Japan」の電化製品が世界を席巻した時代で、特にオーディオは他国の追随を許さない状況でした。初めてヨーロッパに旅行した1986年、ロンドン・パリ・デュッセルドルフ到る所で日本のオーディオ製品を見かけ、誇らしい気分でいっぱいでした(古き良き時代「Japan as No.1」!)。
 スマホはもちろんパソコンもない時代なので、多くの若者はオーディオに熱中していました。私もその一人で、音楽は好きですがそれ以上に再生機器に夢中で、少ないお小遣いで月刊ステレオや週刊FMを買っていたのが懐かしい記憶です。

2 初めてのオーディオ(1970年代)
 当時はまだステレオと呼んでいた時代ですが、次第に一体型(セパレートステレオ)からコンポーネントスタイルに変化している時で、近くにオーディオを扱う電気店のない私は、カタログを郵送で取り寄せ飽きること無く見ていました。
 高一の夏、お年玉の貯金そして牛乳配達のバイト代を合わせ、何とか購入の目途が立ち、父に電気店街に連れて行ってもらいました。念願の装置は手に入ったもののレコードが買えず、たった2枚(Emerson, Lake & Palme「展覧会の絵」、カール・ベーム VPO「田園」)を繰り返し聞いていました(涙)。安価で(無料で)音楽が聴ける現代からは信じられない時代です(LPレコードは1枚2000円以上した!)

SONY PS-2300a、PIONEER SX-515、TRIO LS-300

3 働き始めグレードアップ(1980年代)
 昭和50年代半ば社会人としてスタート。給料をもらえる立場になり、ボーナスを貯めてグレードアップしました。10年近く使ってきた高校時代の装置は友人に譲って予算の足しにしましたが、まだCDプレーヤーは高嶺の花で買える時代ではありません。

PIONEER PL-30L、DENON PMA-750、Victor zero-5fine

4 5.1chホームシアター(2000年代)
 子育て期はオーディオと離れていましたが、今の家を建てた時にホームシアターを設置しました。新築に合わせたので配線はすべて壁に埋めることができ、すっきりした感じです。5.1chは凄い音で映画には合うのですが、音楽の再生(Pure Audio)には以前の機器が優れていました。

Panasonic TH-AE300、KIKUCHI 100、PIONEER VSX820、YST-SW320、YAMAHA NS-2HXほか

5 アナログ回帰(2020年代
 退職を記念して、40年ぶりに音楽のための装置(Pure Audio)をそろえることにしました。そんなに多い予算ではありませんが、二つのことを実現しています。
 ①アナログ復活という時代なので良いレコードプレーヤーにする。
 ②ネット配信の音楽を再生するためDAC付きプリメインアンプにする。
そして意外なことが分かりました。当然高音質が期待できる②を楽しみに購入したのですが、何と音質は①が上でした。多分、可聴帯域外も含めて録音されているので、それが伝わってくるのだと思います。40年前のアナログディスクが100枚程残っていたので聞き応え十分、良い買物でした。

Technics SL-1200GR、marantz PM7005、DALI OBERON3/DW

※下の3枚を除いて、画像はすべて「オーディオの足跡」。明日よりしばらく旅に出ますので、ブログの更新は数日お休みします!