黒柴りゅうの散歩道

日本各地の旅の記録(伝建地区と一宮そして100名城)

63 圧倒的な白壁の町 吉井

1 伝建地区への行き方
 八女市の二つの伝建地区(八女福島・黒木)からうきは市の伝建地区に向かうため、耳納山地を越えるルートで向かいました。途中、既に記事にした「広内・上原地区の棚田の展望台」で一休みし、ナビの通り目的地の「白壁交流広場駐車場」を目指します。
 伝建地区は、ナビの入力の際に「城」や「神社」と違って「地区(エリア)」なので、つまり点ではなくて面なので、結構悩みます。そこで、出発前にGoogleマップの航空画像を拡大し、上空から駐車場らしき場所を見つけ(見つからない時もある)、Googleストリートで現場を確認しているのですが、はっきり言ってとっても手間です。
 そんな中、この町のように分かりやすい名前の付いた駐車場(白壁交流広場駐車場)があると、ありがたいと言うだけでなく、日に数カ所を訪れている者には、時間の節約になりますし、精神的にもとても楽になり助かります。

吉井祇園祭に向けた櫓が組まれていた白壁交流広場、遊具も伝建地区っぽい。

2 伝建地区の歩き方
 駐車場には辿り着けても、著名な観光地のように人の流れがないので、どう歩けば良いのか悩みます。近くに案内所があると、係の方に尋ねたりマップを貰えたりして良いのですが、周りには見当たらずWeb上にも見つからず諦めました。仕方なく案内板を頼りに行動します。以前訪れた案内所のない町(大山町所子や白馬村青鬼)は、駐車場にBOXが置かれ資料やマップを自由に取れたので、どの町もこうしてほしいなと思いつつ大きな通りに出ました。
 すると何とそこが白壁の町のメインストリートでした。豊後街道ですから道幅が広く、その両側に歴史的な建物が並んでいて、サイズが大きく迫力がありました。

日田と久留米をつなぐ豊後街道、これだけ大きな通りの両側に建物が並ぶ町は珍しい!

 その後、案内板にあった白壁通りまで歩き、水辺の散歩道を歩いて伝統的な町並を堪能させてもらいました。

白壁通りの途中の水辺の散歩道、古い町の散歩コースにぴったりで良く整備されていた。

3 伝建地区の歴史

 筑後吉井の町並のスケールの大きさから、この町のルーツを改めて知りたくなり、道順の確認に使った案内板を改めて読み直しました。
 ・農民の力で筑後川から水路が引かれ、この地方の穀倉地帯になる。
 ・天領の日田と久留米を結ぶ豊後街道上の宿場町で、物流の中心地となって行く。
 ・筑後川中流域の物産の中心でもあり、有力商人が育ち金融活動が盛んになる。
 ・明治2年の大火を契機に、漆喰塗の重厚な町家が連続する町並になった。
 こうして時を重ね人々の努力が合わさり、筑後川中流を代表する町に育っていました。

 

62 訪問のルートに悩む

1 多くの伝建地区
 春に訪れた東北地方は、あの広いエリア全体(面積は九州のおよそ1.5倍)で9地区(一つの県に一ヶ所または二ヶ所、山形はゼロ)で、それを8日間かけての訪問でしたが、こちらは随分密集していて福岡県だけで5ヶ所あり(九州全体では22地区)、ハードスケジュールになりそうです。また現地では有名な場所かも知れませんが、関西人には馴染みのない地名ばかりで、八女市とかうきは市と聞いても、どの辺りなのかピンと来ません。訪問ルートが地図で描けずなかなか苦労しました。

2 Googleマップ頼み
 そこで訪問地をまず地図上に落としてみました。筑紫平野を中心に伝建地区が密集しているのが分かります。これをどのルートでどの順に何ヶ所回れば良いのか、何度もGoogleマップで試行錯誤しました。初日は関西からの長距離の移動で午後の遅い時間帯に着くとして、福岡市内の訪問場所(住吉神社筥崎宮福岡城)は終えられるので、2日目は朝から博多を出て一気に福岡の伝建地区を回る、と言う計画にしましたが、最後に一宮を持って来ると御朱印の頂ける時間に間に合わないことも考えられるので、先に回るように考えると何だか変テコなルートになりました。

3 筑紫平野筑後平野
 九州最大の平野筑紫平野、福岡県では筑後平野と呼ぶようです。高校の時の合唱コンクールで、組曲筑後川」の『河口』(混声4部)という曲を歌って優勝しました。曲のラストに「筑後平野の100万の生活の幸を」と言う詩が出て来るのですが、そんな光景を頭に描きながら計画したので、筑後川を越えた時は感慨深いものがありましたが、久留米付近では大河という感じではありませんでした。

 

61 伝建地区と石積の棚田

1 八女市の二つの伝建地区
 八女福島は江戸時代初期に作られた城下町で、指定地区はその町人居住区に当たり、久留米藩最大級の商家町として発展しました。町並には城下町として計画された歴史が感じられ、多くの伝統的建造物が残っていて落ち着いた雰囲気の町並です。
 黒木地区は、元は黒木氏の拠点で江戸時代に久留米藩の在方町として発展したようです。明治11年の大火後の建築で居蔵造(入母屋・妻入りの二階建、浅瓦葺)を特徴とし、石張りの建物など黒木の伝統的な町並みが見られます。

福岡県八女福島の町並。久留米藩内で最大級の在郷の商家町として発展して来た。

同じ八女市黒木(在方町)の町並。特徴的な石張り居蔵造を町中で見かける。

2 耳納山地を往く
 八女市からうきは市の伝建地区に向かうため、九州山地の北西端(耳納山地)を横切るような形で県道52号線を走ります。谷間の集落を結ぶ道路は良く整備されていました。より便利な交通事情を願って、先人達がたゆまない努力をしてくれたお蔭です(1980年以降少なくとも道路の建設経費は5兆円程度を下回ったことがないので、この40年間で200兆円以上が注ぎ込まれています。凄いです!)。
 自身も育ったのは山合いの小さな村なので、懐かしさを感じながらの運転です。山村は今でこそ不便の代名詞だと思いますが、高度成長以前の我が国では建築用材や電柱材だけでなく、柴や薪・炭など各家庭のエネルギー供給地で、例えれば産油地・発電所のようなものですから、山の幸と共に豊かな場所でした。幼い頃の記憶でも、田畑と同じ様に山には多くの人が入り、切り払われた雑木林は格好の遊び場でもありました。

山間の村で一際目立つ星野製茶社屋(HPより)と周辺の茶畑

3 八女茶の産地と棚田
 古い記憶を振り返りながら、山中にしては立派な星野製茶の社屋を過ぎました。周辺は多くの棚田に囲まれ茶畑が多いようです。そう言えば八女茶って良く聞くなと思い調べると、我が国の生産地ランキングで第6位、中でも星野村周辺は高品質な玉露の生産で評価を受けていました。
 峠を抜けると視界が開け、道端に展望所がありました。こうした何気ない所にあるこの手の施設は、意外にあっと驚く場所であることが多いので、迷わず車を停め立ち寄りました。するとそこには圧巻の光景が広がっていました。「広内・上原地区の棚田の展望台」です。山合いに育っただけに心を揺さぶられました。広がっている景色に感動と言うより、これを造り維持して来た人々の努力に畏怖の念を覚えました。良いルートを選択しました!

 

 

(TEST)続々・九州ツアー

ようやく岡山です。まだまだ家は遠いですが、高速代が深夜割引になる様に考えると、よい時間帯になって来ました(約16,000円が約12,000円に!:誤記訂正)

それにしても長崎から約800km、ちょっと六十代半ばの身体には、無理な移動かなと心配でしたが、案外元気で「結構やれる!」と自信を持ちました(ただ睡魔に襲われ、時々休憩^ ^)

夜の山陽道はトラックが多いので、充分気をつけて、残りを走ります!

グラバー邸や大浦天主堂、これらも伝建地区の構成要素だったとは…

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高速代の深夜割引で食事を少し豪華に!

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(TEST)続・九州ツアー

昨日に続き、スマホで現地からの更新です!

今日も好天に恵まれ、暑い中、佐賀県長崎県の伝建地区を中心に訪問しました。こちらではそれなりに有名なのかも知れませんが、関西人には馴染みのない地名ばかりで(知っていたのは有田ぐらい)、訪問ルートが頭の中で混線しがちでした。それにしても九州北部には伝建地区が多く、昨日今日二日間で10地区も回りました。

春に訪れた東北地方は、あの広いエリア全体で9地区、一県に一ヶ所か二ヶ所(山形県はゼロ)で、それを8日間かけての訪問でしたから、こちらの地域の密集度が分かります。その分、東北は特色がはっきりしていて、訪れやすかったのですが…

こちらは白壁の街が多く、頭の中が少し混乱しています。帰宅後、カメラの画像を時系列で整理しながら、まとめて行きたいと思っています。

嬉野市塩田津(川港の商家町)

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鹿島市浜中八本木宿(醸造町)

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諫早湾干拓堤防道路、ナビが面白い絵に!

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祐徳稲荷神社、日本三大稲荷。タイ映画で人気の場所に!

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(TEST)九州ツアー

 今月は、毎日記事を作成していましたが、新しい旅に出ているため、しばらくは更新出来ない状況です。と言う事で、現地からスマホで挑戦してみました。

取り敢えず画像をアップします。写真は基本デジタル一眼で撮っているので、スマホにあったのはほんの少し、練習なので仕方ないものの、少し残念です。

何とか仕上がり、スマホで確認すると良い感じです^ ^  が、パソコンではどんな風に見えているのかなぁ…!

①壇ノ浦PAから見た関門海峡大橋

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②白い花の美しい福岡城お堀の蓮

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③博多麺街道元祖博多だるまf:id:kuroshiba-tourizm:20220711220247j:image
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八女市星野村石積の棚田
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⑤吉井白壁の町並み
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60 燃料価格の地域差

1 信州の燃料価格
 松代城に向かう道中、燃料計の残量が減るのを気にしながら考えました。ガソリンスタンドを経営するには、土地・建物代や人件費がかかります。当然、それは都市部で高く地方では安くなるので、では信州では燃料が安いかというとそんな事はありません。人口が少ない地域では販売量が少ないので価格に転嫁されるでしょうし、何よりスタンドの数が少ないので競争原理が働きにくいと思われます。しかも製油所から遠くなれば、それだけ輸送コストがかかりますから価格に跳ね返ります。
 実際、私の住む関西に比べると「ええっ?」と思う程高値で販売されていて、スタンドに入るのを躊躇してしまう程でした。私の車は軽油ですが、スタンドの価格を見るとレギュラーガソリンの価格かと見間違うほどです。

【左2枚信州】軽油172円・168円  【右2枚地元】軽油137円・140円

2 真田氏の松代城
 真田家は、江戸時代初めに上田地域から移され、明治時代までの250年間、この地を治め松代藩十万石の城下町として栄えました。その居城であった松代城、元は海津城と呼ばれ、戦国時代に武田信玄上杉謙信の攻撃に備え築城したと言われ、千曲川のほとりという自然の地形を生かしています。平成16年に大規模な修復・復元工事が完了しました。

二ノ丸南門(2枚)、海津城の碑と北不明門、石垣、東不明門前橋

城下町の様子(松代藩文部学校)と旧横田家住宅

 

59 信濃国一宮 諏訪大社

1 訪問と参拝と御朱印
 今回の信濃ルートの訪問で、行程を組む際に一番悩んだのが諏訪大社でした。参拝だけなら朝早くても出来るものの、御朱印をいただこうと思うと、6時や7時台に社務所が開いていると言うことはまずありませんし、逆に夕方、夏なので陽が長いと油断して5時を過ぎて訪ねたりすると、御朱印が頂ける建物にはもう人の気配は無いということもあります。つまり早朝や夕刻の時間帯を外す必要があるのです。

2 四社参り-前宮・本宮・春宮・秋宮
 しかも諏訪大社は4つの神社があります。諏訪湖の周りに、上社本宮(諏訪市)、上社前宮(茅野市)、下社春宮(下諏訪町)、下社秋宮(下諏訪町)です。その事が分かった時は、スケジュールに余裕を持って回るため、当然「一ヶ所の参拝で済ませたい」と言う気持ちが働いていました。そこで名前から想定し、上社本宮に代表してお参りすれば良いのではと考えていましたが、現地に着くと多くの参拝者が「四社参り」をされていて(聞こえてくる会話からすぐに判明)考えを改めました。こんな事もあろうかと想定し、一宮には時間的に余裕を取っていたので助かりました。

【上】上社本宮(国重文)・上社前宮 【下】下社春宮(国重文)・下社秋宮(国重文)

3 諏訪大社四社参り
 帰宅後Web上の公式サイトにこんな説明を見つけました。
・お参りの順番に特に決まりはありません、回りやすい順番でお参りください
諏訪大社の四社は格の優劣はありません 四社で諏訪大社です
・四社それぞれに御朱印がありすべて違います 四社御朱印を受けられた方には記念の品をお渡ししております。
 四社参りしておいて良かったです。結果的に正式の参拝が出来、記念品も戴きました。

書き置きではなく直接記帳していただいた御朱印、四社並ぶと壮観で霊験あらたか。

4 御柱祭(公式ホームページより)
御柱祭(おんばしらさい)は7年目毎、寅と申の年に行われます。正式名称は「式年造営御柱大祭」といい宝殿の造り替え、また社殿の四隅に「御柱」と呼ばれる樹齢200年程の樅(もみ)の巨木を曳建てる諏訪大社では最大の神事です。」
「勇壮さと熱狂的ぶりで、天下の大祭としても全国に知らている御柱祭は、古く、804年桓武天皇の御代から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ盛大に行われる様になり、現在でも諏訪地方の氏子20万人以上と訪れる親戚、観光客がこぞって参加し、熱中するお祭です。」

御柱は各社に4本ですが、山中にもあるので16本すべて見るのは難しいそうです。

一宮訪問40ヶ国目ですが、最も印象に残る参拝でした。

 

58 愛車早くも1万キロ

 そろそろ二度目のオイル交換が必要かなと考え、お世話になっている近所のマツダに連絡を入れました。全国ツアーのことを知っている担当セールスとのやり取りです。
「もう何km乗られましたか?」
「先日1万km越えました!」
「早いですねえ、まだ三ヶ月経ってませんよ(笑)」
「支店の新記録だったら、表彰してください(笑)」
 3月末に納車、全国の伝建地区を訪ねて青森から高知まで走っているので、当然の結果ではあるのですが・・・・
「じゃあ少し早いですが六ヶ月点検しましょうか、オイルのサービスも付いていますし?」
「名前が変ですがお願いします!」
 私の担当はいつも朗らかです。車にかなり詳しいだけでなく、ブログや価格ドットコムの投稿にも目を通して感想をくれる”ナイスガイ”です。自身もCX-5オーナーなので、普通の営業以上にいろいろ教えてくれ助かっています。
 そんな訳で、随分早い定期点検が終わりました。
 ここまで何のトラブルも無く、特に嬉しいのが異音(内装のびびり音など)が全くないことです。そもそもカーブでも荒れた路面でもミシッとも言わないので、ボディ剛性が非常に高く当然の結果なのかも知れませんが、本当に良い車です。乗り心地も予想以上で疲れないので、日本列島各地に強力な助っ人を連れ旅している感覚です。隣県までのお出かけが隣町に行くような感覚に変わりました(笑)

土居廓中を訪れた際、安芸城に登って帰りが遅くなり、駐車場は私の車がポツンと1台!

アナログ感のある計器盤、ジョグダイアルで縮尺が瞬時に変わる超便利なナビ

XDだけのサンルーフ、厚みのあるシートとプラの少ないドア内側

 

57 伝建地区-海野宿

1 プロフィール
 海野宿は東御市にある北国街道を代表する宿場町です。関西人には読みにくいですが「とうみし・うんのじゅく」です。初めて町並の写真を見た時、見事に往時の様子が残されていて圧倒されました。それ故、この地の訪問は長い間とても楽しみにしていました。
 江戸時代の記録によると、伝馬屋敷59軒、旅籠屋23軒とあり、大変な賑わいだったようです。明治に入り広い建物を活かして養蚕・蚕種業が営まれました。蚕室造りの建物と旅籠屋造りの建物とがよく調和して、見事な町並を形成しています。

保存地区は、東枡形から西枡形までの約650メートルの旧海野宿のほぼ全体

2 海野宿と木曾義仲
 海野宿の駐車場につくと大きな幟がいくつも並んでいました。よく読むと「いざ、京へ 木曾義仲 白鳥河原の勢揃」とあります。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で青木崇高が演じた話題の武将です。隣接する白鳥神社の案内板を読むと「源義仲は、ここ白鳥神社前に広がる千曲川原「白鳥河原」に拳兵しました(平家物語源平盛衰記「白鳥河原の勢揃」)。地元の海野氏も義仲のもとに馳せ参じ、その数二千騎とも三千騎とも云われています。」とあり驚きました。
 しかも神社の入口の標柱には「海野氏・真田氏 氏神 白鳥神社」とありますので、真田昌幸(幸村の父)が武田信玄に仕えていたことも重ね合わせると、この地が中世日本史の重要な場所であったことが分かります。海野宿を単なる観光名所と捉えていた私は、自分の無知を恥じると共に、古い町並みには単なる時間の経過だけではなく、多くの有力な武将や力のある豪商の関わりがあったことを改めて感じました。

「いざ、京へ 木曾義仲 白鳥河原の勢揃」の幟 「海野氏・真田氏 氏神 白鳥神社」の標柱

3 今も生きる宿場町
 背景はさて置き、海野宿は本当に魅力的な町並みでした。昭和の指定地区と言うこともあって、長い間の人々の営みが町の景観を整え建物を整備し、街路の中を流れる水路と周辺の家々の格子戸が良くマッチして、一幅の絵画・美術品を見ているような場所でした。
 しかもここが素晴らしいのは、ほとんどの家が現役の住宅だという点です。昭和の世代が伝統的建造物の保存を始めた頃は良くても、代が変わるに連れその意志を継いで行くには様々な困難が生じます。「縦に長い屋敷地が幸いし、表の建物はそのままの形で残しても、裏で新しい住居を建てたり、畑をしたり出来るくらい広いんです!」との観光休憩処の方の説明に安堵しました。

 

 

 

56 真田氏ゆかりの上田城

1 学生時代の旅行
 学生時代、大学の先輩と一緒に1週間の信州旅行に来ました。当時は国鉄周遊券で、長野県内はバスも含めて乗り放題です。青春18きっぷと同じ様に思われていますが、周遊券の方がメリットが多かったように思います。
 ・青春18きっぷの5日間に対し、20日間の有効期間があった。
 ・当時の国鉄はたくさん急行が走っていて、追加料金なしで利用出来た。
 ・青春18きっぷは大人子ども同一料金だが、周遊券は学割が使えた。
 夜に大阪駅で待ち合わせ、急行「ちくま」(夜行長野行き)で信州に向かい、早朝松本駅に着いて洗顔し、松本城に向かったのが懐かしい思い出です。
 こうして書いてみると、ユースホステルも多く格安で利用出来たことも合わせ、若者が長期休暇を利用して旅に出やすい環境が整っていたことが分かります。
45年ぶりの松本城、どの角度も本当に格好いい天守です。そして国宝現存12天守

2 45年ぶりの上田駅
 夜が暑いので車中泊を避け、上田ではホテル泊にしました。車なので駅近の場所にする必要は全くないのですが、ステーションホテルの名前に惹かれ駅前での宿泊です(ちょうどじゃらんのポイントが使えラッキー!)。駅前に着いた時「ここは来たことがある」と45年前の記憶が甦りました。フロントの方に「昔、ここってイトーヨーカドーが建っていませんでしたか?」と記憶を確認すると、「お客さんよく覚えてらっしゃいましたねえ。ヨーカドーは駅向こうに移動したんです!」と言われ、心の中でガッツポーズをしていました。

上田駅前、部屋の窓から長野新幹線上田電鉄別所線の撮影に成功!

3 真田氏の城 上田城
 学生時代の信州旅行では、先輩と松本城小諸城に立ち寄っていますが、上田城は全く対象に上がっていませんでした。小諸城は、当時の学生にはまだ島崎藤村のネームバリューがあって、信州に旅行したら”小諸なる古城のほとり”を訪ねるべし!と言うような意識があったと思われます。
 今なら、圧倒的に真田氏の上田城でしょう。大河ドラマ真田丸』やテレビのお城番組の影響は大きいと思います。何より山城ブームの中で、天守がなくても堀切や虎口・曲輪と言った遺構で、十分お城を堪能できる人達が多くなりました(私もその一人)。
二ノ丸橋とその下の堀跡(かつては上田電鉄運行)。六文銭の真田赤備え兜!

かつての上田城の威容を表す東虎口櫓門、徳川勢は二度とも突破出来なかった!

徳川勢が攻めきれなかった本丸周囲の巨大な堀と土塁。そして南側は千曲川の断崖!

 上田城は、二度にわたって徳川の軍勢を打ち破っていますから、どんな城だろうと興味津々で訪ねました。二ノ丸と本丸の間の堀はかなり規模が大きく、掘り出した土を積み上げた本丸側の土塁も、現在でもかなりの高さがあり、徳川が攻めあぐねた理由が分かる気がしました。
 本丸を一周し、最後に南側上田城跡公園駐車場から、西櫓と南櫓をつなぐ尼ヶ淵(かつては城の南側は千曲川の断崖)を見ながら、この城の歴史に改めて思いを馳せ、上田城を後にしました。

 

55 伝建地区-千曲市稲荷山

1 町並・建物保存の現状
 稲荷山地区は、江戸時代終わりの地震で大きな被害を受けました。その善光寺地震による大火を経験し、この町の土蔵は、壁・粗壁・なまこ壁・腰板張りの壁などの蔵が多く残っています。町はその後大きな復興を遂げ、明治時代から大正時代には、生糸やその製品が集まる北信濃有数の町として栄えました。
 伝建地区としてはまだ日が浅いためか、伝統的な街並みの復元には少し時間がかかりそうでした。様々な建物が混在していて、今後の進展が待たれます。

「たまち蔵道」の土蔵群、表通りから外れた小道で分かりにくいが素敵な佇まい!

2 町の人に尋ねると
 町の人に建物の場所を尋ねると、どの方もとても親切に対応して下さいました。
 コンビニで店員の方に伝建協の冊子『歴史の町並』の稲荷山のページを見せ、「この建物はどう行けば良いですか?」と聞くと「私は別の町から来ているのでよく分からないです。すいません。」との事だったので諦めて、駐車場で見つけた中高年4人乗車の車(一人は詳しい方がいる筈)に近付き同じ様に尋ねてみました。
私「すいませーん。地元の方ですか。この建物探しているのですが・・・・?」
車(お父さんらしき方自信を持って)「これは一つ向こうの通りを右に行ってすぐだ!」
 (横の奥さんらしき方)「お父さんちょっと違うんじゃない。交差点越えて向こうの方にこんな建物あったんじゃないかなぁ。もう一度近くに行ったら聞いてみて!」
私「ありがとうございます。すぐに行ってみます。」
車「気をつけて!」
 教えてもらった辺りに到着、それらしい建物は見つかるが確信が持てないので、ちょうど買物から返って来て家に入ろうとされていたご夫婦に尋ねました。
私「すいません。遠くから来たので教えて下さい。あの建物はこの写真の建物ですか?」
家「そうじゃないかなあ、多分そうだ(と奥さんに見せ同意を求める)」
 「そうだと思うんだけど、ちょっと形が違うような。この写真古いですよね。」
 「(ご主人思い出したように)そうだ。確かに以前はこんな感じだったような、でも向 かいの建物の壁がこれで間違いないので、あの建物です!」
 みなさん本当に親切でした。市民が一体になって町づくりが進みそうな感じで、何だか幸せな気分で町を後にしました。

県下屈指の呉服商として繁栄した山丹の耐火耐震建物、裏に蔵も残る田中園茶店

 

 

54 伝建地区-白馬・戸隠

1 車中泊とハンディ扇風機
 中央高速の屏風山PAで車中泊、5時前に目覚めました。相変わらず周りはトラックだらけですが、遠くに瑞浪の町並みと青空が見えとても清々しい朝です。エンジンONのまま朝までというのはNGにしているので、全国的に猛暑のこの季節、もう車中泊は無理かなと思っていました。それでも中央道を走るに連れ気温が下がり、寝る前は24℃でしたから、ハンディ扇風機で結構快適に眠れました。

平日移動で使える割引は深夜割引(3割引)、前日夜に出発するとお得感があります!

2 雪の残る山々と白馬青鬼
 松本市辺りから遠くの山々に雪が残っています。青木湖を過ぎた辺りではだんだん近くに見えるようになり、白馬村に入ると圧巻の光景でした。そこから更に山に入り青鬼地区を目指します。道中は舗装はされているものの細い林道、幅寄せや離合の苦手な人は躊躇する道で、対向車が来ないことを祈りながら無事白馬青鬼集落の駐車場に着きました。ここは20台近く停めれる広さがビジターに分かりやすく設置されていて、ありがたい感じです。
 この地区はなだらかな南斜面の傾斜地に沿って、同じ高さに15軒の家が列になり2段に並んでいました。鉄板で覆われた伝統的な茅葺き家屋が規則的に並ぶ様子は、印象的な農村風景を形成しています。遠くに棚田を見ながら集落内を一回りし、高地の爽やかな雰囲気を堪能出来ました。

ウィンタースポーツのメッカ白馬村、夏でも雪が残りCOOL感に癒されます。

3 山上の地区戸隠

 ここ戸隠は青鬼地区より遥かに高地でした。ただアクセスは良く、バードラインなど快適なドライブですが、ただ一ヶ所驚きの場所がありました。戸隠道「七曲がり」です。その名の通り180度向きを変えるカーブが8回あり、屋根が付いていて(防雪用?!)路面も悪く道幅も狭い上に、地元の車なのか結構なスピードの対向車が多く、カーブではヒヤッとしました。帰宅後、Googlemapで確認しクチコミを見ていると、みんな相当難儀している様子が伺え、行く前に読んでいたらここは避けたと思います。

 戸隠神社は、宝光社も中社もお参りしましたが結構な参拝者の数で、関西の者にはなぜこんな山上にこれほどの人が来ているのか不思議でした。長野市観光情報センターのサイトを見ると「鎌倉時代には高野山比叡山と並ぶほどに栄えた霊場」とあったので、ようやく合点が行きました。ここは宿坊街としては初めての「伝統的建造物群保存地区」で、建物を中心にその周りに農家、商家等からなる門前町が拡がり、歴史ある信仰集落としての町並みを良く伝えていました。

急傾斜の石段270段、60代シニアの意地で一気に登り切りました!

 

53 木曾路の伝建地区

1 木曽路の魅力、奈良井宿
 大内宿や角館と並んで、伝建地区の中では最も期待していた場所でした。昭和53年、全国で11番目の伝建地区指定で、倉敷や知覧・高山よりも早いのでかなりの「老舗」です。中山道鳥居峠が大変な難所で、麓の奈良井宿で多くの人が宿を取るため、最盛期には「奈良井千軒」と呼ばれ賑わった宿場町だそうです。
 伝建地区はエリア指定なので、どこを目指して行くのか結構悩む時があります。中心部に駐車場併設の案内所があるというのが理想ですが、ここ奈良井宿は隣接の道の駅があるため安心して向かえました。更に近くて線路を渡りやすい場所にスペースがあることを、Googleマップやストリートで確認していたのでラッキーでした。下調べが功を奏し笑顔になる瞬間です。前向きな気持ちでいると積極性が出て、町の人にも尋ねやすくなります。「線路を横切る道はこちらで大丈夫ですか?」、「良いよ。このまま向かうとすぐ見つかるわ!」、明るい問いかけには明るく答えて貰えます。
 家と家の隘路を抜け通りに出ると「あっ!」と声が出ました。予想通り壮観な町並です。町家の大部分が街道に並んで間口いっぱいに建ち、二階を一階より張り出した造りで軒が深く、独特の町並を形成しています。何度も写真では見ていたものの圧巻でした。

道の駅横の木曽の大橋。樹齢300年以上の総檜作りの太鼓橋は橋脚を持たない木製の橋としては日本有数

歴史を感じる町並と明治天皇行在所の上問屋(国重要文化財)・脇本陣の伊勢屋・旅籠屋の徳利屋

 なおマップはこちらから 観光資料ダウンロード - 奈良井宿観光協会

3 隣接する伝建地区-木曾平沢
 奈良井宿から北西に約3km、同じく伝建地区の木曾平沢です。江戸時代より漆器業で繁栄し、今なお日本有数の生産地として栄えていて、中山道沿いには漆器店が軒を連ねています。町外れの道の駅「木曽ならかわ」は、道の駅と言うよりミュージアムのような場所で、木曽の漆器、木材加工製品の展示と販売がされていて見応えがありました。

 

52 観光日本の復活

1 もう一つの天橋立
 関西一円に広がった京都府民割(きょうと魅力再発見旅プロジェクト)を使って、丹後半島に出かけてきました。宿泊割引5,000円とクーポン券2,000円、夫婦で14,000円お得な旅でした。
 これまで魅力を感じながらも、少しアクセスが遠かった第二の天橋立「小天橋」、ここのほぼ中央にある「みなと悠悠」の予約が何とか取れました。到着すると、旅行割のせいか駐車場は一杯、フロントの話では連日満員が続いているようで、コロナで疲弊した観光業もようやく明るい兆しが見えたようで、ホッとしました。
 砂州の真ん中にあるだけに宿からの景色は素晴らしく、日本海久美浜湾も望める絶好のロケーションです。しかも日本海に沈む夕陽を見ることができ、良い日に来れたと他のお客さんとも話していました。

宿の前には久美浜湾とそのシンボル甲山、背後は日本海でこの日は夕陽が沈む瞬間まで見えました!

2 豪商稲葉本家
 久美浜は、江戸時代に幕府直轄領の中心として栄えた町で、久美浜縣が置かれた時期もあり、今も町のいたる所に歴史を感じます。町並も伝建地区に手を挙げられそうな雰囲気の場所でした。その中心は「豪商稲葉本家」で、織田信長の家臣稲葉一鉄にルーツを持つ家のようで、北前船で財を成し明治18年京都府高額納税者番付トップに名前が見つかります。歴代の当主は衆議院議員久美浜町長なども務め、私財を注いで久美浜豊岡間の鉄道開通を実現させたそうです。
 これまで日本各地の伝建地区で「○○家住宅」を見てきましたが、その規模からも活用のされ方からも(市の観光交流施設)、トップクラスの建物でした。屋敷内の建物を生かしたカフェからは素敵な庭が垣間見え、名物の「ぼたもち」でコーヒーをいただき旅の印象が一層高まりました。

建物内部も庭も素晴らしい場所でした。町並も伝建地区の雰囲気で、合併前にはその話もあったようです。

3 和久傳ノ森
 和久傳はミシュランの星が付く京都を代表する老舗料亭です。そのルーツは明治の京丹後で、故郷の地に食品工房が立ち上げられこの名が付いています。更地であった土地に、地元だけでなく全国から集まった人々で植樹が行われ「和久傳ノ森」が造られました。
 その場所に、安藤忠雄氏の手がけた美術館「森の中の家 安野光雅館」が佇んで素敵な空間を構成しています。大好きな建築家でしたので、オープンした年に一度来ていましたが、今回再訪です。安野氏の「洛中洛外」が多数展示されていて、至福の一時を過ごせました。

何度来ても敷地内に入った瞬間から心が癒される空間です。併設のレストランも非常に賑わっていました。

4 丹後大震災の断層
 帰路、「郷村断層」(ごうむらだんそう)に寄りました。
 昭和2年、この地を襲った大地震で大きな被害を受けた丹後地方ですが、長大な断層が生じ、学問的にも貴重な痕跡で国指定の天然記念物となっていました。特に水平方向のずれが残っているのが珍しく、ずっと以前から立ち寄ってみたい場所でした。